1926年(大正15年昭和元年)満州のハルビンで生まれた私は、昭和2年生まれの子たちと共に、満6才の4月、昭和の子どもとして最初の尋常小学校入学。新しく色刷りの国語教科書「サイタ、サイタ、サクラガサイタ、ススメ、ススメ、ヘイタイススメ」を喜んだが、その昭和初期から日本がどんなに急激に変化したのかは後になって知った。

 

32年(昭和7年)5月の五・一五事件(陸軍将校による犬養首相暗殺)、9月満州事変勃発、33年満州帝国樹立、その年に小学校に入学したのだ。居留民の建てた小学校はその時から満鉄経営となり、満鉄社員、官吏、軍人などの日本人が大量に増え、市内の空気は一変した。

34年8月、国際連盟脱退、36年二・二六事件(陸軍青年士官、下士官による大臣、重臣の殺害)。37年7月支那事変(この時は親元を離れ日本内地に来て尋常6年だった)、そして41年女学校3年の12月8日太平洋戦争勃発、津田塾2年の44年3月、東京大空襲を始め全国各都市の空襲、神戸の我が家も焼け、姉の爆死、弟の重症の知らせを受けた。

私を日曜学校に連れて行ってくれた優しい姉の死、私は校庭の梅林の中でさめざめと泣いた。今まで何千、何万人の死、との大本営発表を無神経に開いていたが、こんなに悲しい思いを何万人もの人がしているのだと、初めて戦争のあってはならない悲惨さを思った。

45年6月の沖縄戦、8月広島、長崎の原爆投下。こうして、やっと日本はポツダム宣言を受諾して8月15日の敗戦に至った。敗戦と共に、進駐軍によりいろいろなことが行われた。戦争犯罪者の裁判と処刑、47年新憲法、教育基本法が発布され、教育制度が改定された。私はその年に卒業して教職に就いた。6・3・3制である。高等小学校は3年制の新制中学校、旧制の中学、女学校は3年制の新制高等学校となった。私立の女学校は中学・高校併設となった。新教育の学びと、旧中等教員免許を新制高校免許に改訂のため、教師たちは2週間の講習を受けねばならなかった。

アメリカから教育使節団が来て教育制度またその内容を指導した。その時代アメリカはデューイのプラグマティズム自由教育だった。教科書は教師が選択し、数学も生活単元学習と言って、生活、あるいは実業で用いる数学(たとえば栄養計算とか何かの測定など)に戸惑うばかりだった。

しかし、数学教育学界では間もなく数学教育は系統学習でなくてはならないと、遠山啓氏を中心に数学教育学会を作り冊子「数学」を刊行した。他の教科も戸惑い、文部省に指導要領発行を求め、教科書選定についても文部省の指導を求め、文部省が教科書の検定をするようになった、これは特に歴史、社会の教科にとっては極めて危険な事であった。

新憲法と共に定められた「教育基本法」は戦前の、国民の国家に対する義務としての義務教育と違い、教育を受ける権利が国民にあり、親や国はそれを満たす義務があること、そして行政の義務はその条件整備であり、教育の内容に関わってはならないことが第10条に明記されていた。

新制度改革の当初、都立の新制高校は、旧制の高等学校が、受験から解放され、実学にも至らず、もっぱら、自我形成の期間とし楽しんでいた、そのような教育を目指していて、私立の中高が昔の女学校のままなのに比べて、尊敬の目をもって見ていた。

しかしそれから数年後に、ある教育協議会で都立高校の先生が管理体制に縛られ、多忙であることを嘆いているのに驚いた。そして、今や学歴ブームで誰もが大学を目指す中で、新制高校は旧制中学のように受験校となっていることを知った。60年、70年ごろ、日教組と政府との激しい争い、新左翼の争い、そして大学紛争、安田講堂に警備隊が突入など、いろいろあったが、それも昔話である。

若者は政治に無関心になり、経済界からの人材要求に学生も踊らされている。そして安倍政権は、こうした中で、慰安婦問題、韓国人労働強制などなどの戦争罪責を否定して、国民に「美しい日本」への「愛国心」を持たせようとし、2006年にはついに教育基本法改定という暴挙。政権を引き継いだ菅政権は、近代史を若者に語る加藤陽子氏を日本学術会議会員への任命を拒否してしまった。これらは愚かと言っておれない緊急の課題である。

ドイツが、決して忘れてはならない、後戻りしてはならないと、さまざまな規制をし、歴史を刻み、継承しているのと大きい違いである。歴史を支配しておられる神を知り、その中に生きている私たちは、今の時を生きる務め、次世代に継承の務めを果たさなければならない。