2020年10月トルコ地震被災地で

二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16章31節)

第2次熱海土砂災害ボランティアで、遺体が安置されている南熱海マリンホールに行った。7月19日に18体のご遺体が安置されている施設を訪問するために、熱海市役所に問い合わせたところ、拒絶された。かつて東日本大震災直後に仙台市で合同慰霊祭が営まれた際、役所は遺族を集めていた。そこへ住職たちがお経を唱えるために入って来たとたん、役人たちは政教分離を貫きたいのか、すぐに出て行った。阪神・淡路大震災の時点ではそのうような事例はなかった。

宗教者を排除することがきっかけになって、神戸市垂水区で西方院、柿本人麻呂神社、神戸国際キリスト教会の宗教者と、非常勤で 関係があった神戸松蔭女子学院大学の教授たちと「阪神宗教者の会」を 2011年4月に立ち上げた。10年継続してきている同会に、7月23 日、メディア記者もオンラインで参加した。筆者の「熱海よ、お前もか」のメッセージ後、質疑応答で活発な意見が出された。行政が死者と立ち会うことすら規制するという、近年の硬直化した傾向に対して問いがなされた。

“お上”の統制が「縁」を絶つ

技術過信の人類社会に、自然は呻(うめ)いている(ローマ 8・22)。
「ドイツの壊滅的な洪水、忍び寄る気候変動 の影響」と、メディアはうそぶく(NATIONAL GEOGRAPHIC報道 21年7月21日)。7月にドイツおよび近隣諸国、また中国で、大洪水によって多くの人が犠牲になった。ドイツでも中国でも、ダムの決壊が被害に拍車をかけた。気候変動が原因なのか。都市開発の影響で洪水が発生することを精査すべきではないか。科学者、研究者、政府は原因検証に本腰を入れるべきではないのか。

国家が法と秩序を守らず、人権をないがしろにしているなら、荒野の預言者として、神の言葉の代言者として沈黙すべきではない。たとえば災害の現場では、メディア、ボランティア、医療関係者が政治的判断で遮断され、72時間を経ても一切立ち入り禁止とされる。痛み、苦しみへの共振、共感、共苦の有機体「縁」が、日本列島全体で過去のものとなろうとしている。コロナ禍前から統制が行き渡ってきた。

他人の悲しみに寄り添いたくても通行禁止、立ち入り禁止、どこにいるかさえ「個人情報」として知らされない。みんなで試練を乗り越え助けあおうという人情、隣人愛も無視される。なんでもが役所の許可、申請、登録に合格しなければ、安否も確認できない。役所の書類の細かい問いは、高齢者をはじめ民衆には冷たい仕打ちである。いつしか共同体意識は薄れ、縦割りで融通がきかない複数の書類手続きに閉口する。

ボランティアで2回にわたり、熱海へ行動を共にした佐々木美和大阪大学院特任助教も語る。
「目の前で幼馴(なじみ)の家々が流される。家族が土石流にのまれても規制され手が届かない。家族に一目会いたくても、許されない。最期の別れより専門家優位はなぜなのか。被災者への冷たい仕打ちが被災地でまかりとおるのはなぜか。背後に横たわる優先順位は、しらずに民衆も盲信する専門家至上主義ではないか」

日本全体がコロナ禍にあっても、生身の死者と向きあう準備は奪われ、最後の対面すらお上(かみ)がコントロールし、事務的な処理でその人の人生は終わる。しかし「死んだら おしまいさ」ではなく、死者と生きとし生けるものと共生する永遠性、時間・空間の超越、共存のテーマを噛みしめたい。

死者を悼む人々の心が排除される中で

「小さくされた人々」へ「行う」

この世は過ぎ去るのだからと、現実の悲劇には目を向けない。教会内は二元論ではないか。政治、思想、社会運動などへの責任倫理が麻痺していないか。 性的虐待を受けた幼子たち、限界集落で災害のため家屋と一家の大黒柱を失った母親、ワクチンの連絡も届かない路上生活者たち、いと小さいそんな貧しい者に教会の敷居は高い。

プロテスタント教会は神様からのプレゼントだと、信仰を無料で受け取らせれば取り決めに盲従させる。そこにあるのは恵みではなく、聖職者の生活応援、信者拡大、奉仕のサロンになっている。

神からのプレゼントは「小さくされた人々のため」への「行い」であり、信仰がなくても、誰であっても良心に従って、行うはずである。
「私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです」(エフェソス 2・10)。

恵み漬けのプロテスタント教会の特徴は知っておく必要があろう。聖歌隊や讃美による陶酔、美辞麗句の長い祈り、厳粛な会堂で罪人をひざまずかせるリタージーに陶酔している。「見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(マルコ 12・40)。

日本人のクリスチャンの平均寿命は約2年半(『クリスチ ャン情報ブック』いのちのことば社)。この教会に救いはないと受洗者は遁走(とんそう)する。なぜなら多くのプロテスタント教会は、うわさ、悪口、他者への好奇心に満ちており、生気のない教会となっている。

神は生者と同様死者をも心にかける

プロテスタント宣教解禁後、仏壇、位牌、偶像を処分することがキリスト教入信への絶対条件であった。先祖崇拝をかたくなに拒む宗教性はあちらこちらで摩擦、村八分、断絶を起こした。死者を十分には顧みない「反家族的」宗教として、キリスト教に日本人はなじめなかった。

プロテスタント教会は生前にイエスを救い主と告白しないと死後地獄に落ちると、約500年近く信じてきた。では、イエスを知らずに、十字架の御血潮の恩寵を拒絶した者は永遠の火の責め苦にあっているというのは、聖書的なのだろうか。

イエスは現世と霊界双方の主である。「キリストも、正しい方でありながら、正しくない者たちのために、罪のゆえにただ一度苦しまれました。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では殺されましたが、霊では生かされたのです」と、「正しくない者のために」導かれる方である(Ⅰペトロ 3・18)。続く文脈は次のように述べる。「こうしてキリストは、捕らわれの霊たちのところへ行って宣教されました」(19節)。ということは、キリストは死後の「捕らわれの霊たち」に宣教なさったことを、どう考えればいいのだろうか。

キリストは福音と出会う機会を得た私たちだけを愛していると考えるのは、利己主義と自己中心主義と言えないだろうか。優生思想である。
「また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれた。これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた」(黙示録20・12)。

命の書に連なる名を決めるのは究極的には神である。プロテスタント教会の宣教師、牧師、神学者が決めるのではない。

10年前の東日本大震災において津波で溺死した死者。私たちの世界に働きかける力をもつ霊魂や超自然的存在が住まう、別の世界が実在するのではと、被災地は筆者に示唆した。「よく言っておく。あなた がたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる」とイエスは言う(マタイ 18・18)。

95年以降、毎週、講壇から聖書の説教をしてきた。「人はパンだけで生きるものではなく 神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と、聖書のロゴスを真剣に語ってきたつもりである(マタイ 4・4)。しかし、本質的な真理がわかっていなかった。死者の霊は物質のパンを食べることはできないが、神の言葉を食べることができる、という理(ことわり)である。

神の語りかけに耳を傾けよう

ひとり神の前で祈ろう。おのずと聖霊に押し出されるだろう。毎週、神戸市の東遊園地で炊き出しをしている。生活保護も受けていない路上生活者が対象である。彼らにワクチン接種の手紙はこない。10万円の特別支給もなかった。 キリストが半死半生の人を介抱した善いサマリア人の話をされた時「行って、あなたも同じようにしなさい(ポイエオー)」と、言われた(ルカ 10・37)。神について伝道し、信者を増やすのではない。神が私たちに何を語っておられるのか耳を傾けよう。

神に耳を傾けるために組織、資格、プロジェクトはいらない。ヨハネの福音書10章15節でイエスは 「小さくされた人々」のために「命を捨てる」と模範を残された。 賀川豊彦は「一人は万人のために、万人は一人のために」と述べた。ひとりで祈る。おのずと聖霊に押し出されたらキリストが伴走してくださる。

党派心、高慢、ヒエラルキーの会堂から荒野を目指し、孤食の被災者と共食しよう。知らなかった家族と出会うよう。
(聖書引用は協会共同訳)

2021年8月15日号掲載記事