吉岡契典氏

良い教会論とは何でしょうか? 良い教会論とは、教会をただ観念的・哲学的に考察するのではなく、教会と自分自身との繋がりを具体的に分かり易く描き出すことができ、皆が親しみと喜びをもって教会形成に向かうことを促すような教会の提示の仕方だと思います。

Ⅰ教会とわたしの関係

教会形成とは自己形成である

コロナ禍において教会が問われている、教会にとっての変わらない土台とは何かという議論に入る前に、その入り口として、どのような場所に立って教会を語り論ずるかという、教会に対する立ち位置の問題を扱いたいと思います。

カルヴァンが、真理に基づく神認識こそが真の自己認識を生むと語ったように、キリスト者とは、神に出会うことで、初めて本当の自己を知るに至った人のことです。そしてこの論理がそのまま、教会と自分との関係に当てはまります。真の神認識が真の自己認識を生み出すように、真の自己形成は、神の教会の形成ということと一体的に進行するのです。教会が私たちにとって不要不急でない理由は、教会が私たちの自己形成と深く生命的に結び付いているからです。教会形成とは自己形成であり、キリスト者として生きるということは、教会から離れたところで為(な)しうる事柄では決してありません。

また、教会はキリストの体、私たちはその肢体という表現も聖書にあります。よってキリスト者は、教会を自分から切り離して、単に客観的に教会を見るという立場に立つことはできず、私の存在と教会とは重なっています。そのため教会の一部に組み込まれた存在である私が変わり、私が形成され成長することで、教会も形成され成長するのです。

 

母なる教会

さらにカルヴァンは、信仰者にとって教会は生涯の母であり、信仰者はその母なる教会に一致し、それによって養われ、支えられ、成長し、前進することによって目標に至る、神の家族であると語ります。

確かに、何人(なんびと)も母の存在を抜きにしては、命を与えられて生きることはできず、健全に成長できません。よって神の子どもであるキリスト者が健全に成長するためには、生涯にわたって、絶えず母なる教会による養いが必要です。そしてこの母なる教会に連なる神の家族という家族的教会観は、コロナ禍の教会論において特に重要です。

 

神の家族としての教会の回復

コロナ禍によってステイホームが叫ばれていますが、孤立無縁の状態にある人がただ家に引き籠ってしまうことは、さらなる孤独と分断を引き起こす大変危険な方向性です。

「教会とは建物のことではなく、信仰による共同体を指す」と常々言われてきたことが、コロナ禍によって明白となりました。まさに教会とは、ただの建物のことなのではなく、人種や性別や世代を超えてキリストによって結び付けられた神の家族です。コロナ禍によって、すべての人にとってのマイホームとなり母なる実家になるというキリスト教会の使命と存在意義が、判然としたのです。

一人一人の「わたし」が教会である

コロナ禍は教会を揺さぶり、ディスタンスが空間的分断を生じさせましたが、かえってそれは、教会の中に昔からあった、内か外かという枠組みを解体させました。オンライン動画配信は、礼拝を捧げる会衆の同心円を、家庭や、スマートフォンを持つ個々人にまで拡(ひろ)げました。

これは一人一人の「わたし」による教会の持ち出しと拡張と見ることはできないでしょうか? もちろんその交わりと制度的な教会との区別と扱いは慎重になされなければなりませんが、従来の制度的な教会が単純に解体されたり希釈されてしまうのでない積極的な意義を、聖霊論の助けを借りてそこに見出すことができるのかもしれません。そこでは万人祭司的な認識が機能すると思いますし、建物としての教会を超えた教会共同体が立ち現れてきます。

Ⅱ教会の変わらない土台:聖書論から考える教会論

コロナ禍で必要とされるネットリテラシー

(教会論の必要性を確認した上で、次は教会の「土台」について考察します。2021年8月15日号掲載記事