理解者がいると頑張れる 私の3.11~10年目の証し いわきでの一週間⑭

写真=仮設での支援の様子

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東日本大震災当時、いわき市で出会った人たちのその後を聞く。同盟基督・いわきキリスト教会牧師の増井恵さんは、原発事故後、近所に仮設住宅団地ができ、かかわり続けてきた。一教会の一牧師として身の丈に合ったかかわり方を模索している。コロナ禍に直面し、原発事故直後の状況がフラッシュバックしたとも言う。【高橋良知】
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2011年3月11日は、前日夜中に東京での用事から戻り、昼は休憩していた。地震が収まってから教会の建物の様子を確認し、ガソリンスタンドでガソリンを満タンにした。旅行に来ていたクリスチャンの夫妻が助けを求めて教会に来たり、近隣の住民数人も訪れ、「家では倒壊の恐れがある」と教会の駐車場に車を止めて一晩過ごした。

教会員の安否を尋ね、海岸付近の教会員宅を回るなどした。教会員が経営する旅館は床上一メートル以上の浸水があった。翌日原発事故が起こると、住んでいたアパートを目張りし、教会員の被爆を避けるため13日の日曜礼拝は、礼拝堂に集まらず各自で実施できるよう式文やメッセージをメールやFAXで送った。

日本同盟基督教団では、静岡県の浜岡原発の問題に取り組む牧師らがおり、原発事故のシミュレーションがされていた。「誰もが『避難しなければならない』という状況ではすでに遅い。渋滞になれば被ばくのリスクが高まる。むしろ家に閉じこもっていた方がいい場合もあります」

いわき市からの避難のピークは15日昼頃だったが、教会員に早めの避難を促す連絡を取り、増井さんも14日夜から茨城を経由して千葉に避難した。その後も教会員らの避難の手配や安否確認を続けた。25日にいわきに戻り、27日には会堂礼拝を再開した。

原発事故の危険を最大限に見積もっての決断だったが、「対応は難しかった」という実感がある。牧師の判断に対する賛否があり、教会としても大きな痛みを負った。いわきに戻る日は「いわきで生活ができるのか、牧師を続けられるのだろうか」と暗たんたる思いがした。会員の大半が避難したため27日の礼拝出席は半分以下だった。

「『これからどうなるか分からない』という状況は人間にとっていちばん厳しい。原発事故では、津波ですべてを失ったのとは違う『あいまいな喪失』がある。大熊町や双葉町など原発直近の町以上に、そこに隣接する浪江町、富岡町の方が『帰れるかもしれないが、帰れないかもしれない』というストレスが大きかったようです」

「この先どうなるのか」「牧師を続けられるのか」というトラウマは、昨年のコロナ禍発生直後によみがえってきた。実際体調不良となり、休暇をとった。その後仲間の牧師に話を聞いてもらうなどして心がやわらいだ。「誰かが自分のことを知っていてくれると分かると人間は頑張れる。それは被災者支援の現場でも実感したことでした」

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震災後数か月は教会員のケアや避難所支援の協力などで動き回っていた。9月には教会の近くに仮設住宅団地が出来たが、すぐに支援には動けなかったという。教会の疲弊、教会の責任の範囲などに思いを巡らし、「やった方がいい。でも大変だ」と葛藤した。しかし様々な励ましを得て、11月から支援を始めた(『原発避難者と福島に生きる』2016参照)。

先行して活動していた日本聖公会に協力し、その働きから学んだ。「京阪神の牧師たちが尽力していた。阪神淡路大震災で支援する側、される側両方が傷ついたという反省から、『自分たちのための支援はしない』という方針で仕える働きに徹していた。大々的に物資配布やイベントをするのではなく、自治会や社協のリーダーの悩みを聞き、彼らがやりたいことを励まし、バックアップしていきました」

増井さん自身、日頃の牧会の経験もあり、支援活動でも「自立」がテーマになると考えていた。「どのような地域でも必ず良い志をもって立ち上がる人がいる。それは神様が建て上げられた人だと理解し、教会、クリスチャンは彼らに寄り添い、支える位置に立つのがいいのではないか。物やお金の支援、ボランティア動員だけでなく、それをしていかないと復興になっていかないのではないか。彼らには様々な悩みがある。自分を肯定し、一緒に歩んでくれる人がいると頑張れる」と話す。

実感したのは、「声掛けをして、相手の様子を聞いて、祈る、という牧師が普通にやっていることが、一般の社会でも生きる」ということだった。次回さらに支援の在り方について聞く。(つづく)