「圧倒的異教社会で旅人として生きる」 8・15集会で澤氏
圧倒的異教社会で旅人として生きる 「モデルはバビロン捕囚」 「改革派西部中会 8・15集会」で澤氏講演
日本キリスト改革派教会西部中会・世と教会に関する委員会主催の8・15集会が8月9日に、神戸市灘区の神港教会で、オンラインを併用して開かれた。講師は日本キリスト教会福岡城南教会牧師の澤正幸氏。「改革派『二王国説』の現代的意義を考える」をテーマに講演した。
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開会に伴い示されたみことばは、Ⅰペテロ2章11~17節。同委員会委員長の袴田康裕氏により「新型コロナウイルスの感染拡大で命の危険や生活の危機にさらされている人々を支え守ってください。憎しみと暴力をあおるようなことばが飛び交っているこの国に生かされているキリスト者として、この国で果たすべき務めを果たせるようにしてください」と、祈りが捧げられた。
講演では、まず日本キリスト改革派教会(改革派)と日本キリスト教会(日キ教会)の、今日までの歩みに触れた。
戦中、日本基督教団に所属していた現日本キリスト教会福岡城南教会は、1943年5月から45年10月初旬まで礼拝中に国民儀礼を導入していた。当時の藤田治芽牧師は戦後「今なお心に悔いを覚えることは、礼拝に先立って国民儀礼を行ったことである。これは決してなしてはならないことである」と、書き残している。福岡城南教会は2017年1月の総会で藤田牧師の悔い改めを覚え、当時国民儀礼を導入したことを神の御旨に反する罪と認め、悔い改めの宣言を行った。これが九州中会で共有され「戦争罪責の悔い改めの宣言」として採択された。
改革派と日キ教会は戦後日本基督教団から離脱して再出発した。互いに靖国闘争を闘っていたが、共闘することはなかった。交流が始まったのは1995年、日キ教会が教会憲法にウェストミンスター信仰告白を受け継いでいることを明記したことが契機になる。
改革派が続けている2・11集会や8・15集会を評価し、かつて「平和をつくる教会をめざして」をテーマに行われた講演の中から、小野静雄氏「キリストに従う」、牧田吉和氏「信仰告白としてのファシズムとの戦い」、市川康則氏「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」の三つを取り上げて課題を提示した。
小野氏は「教会は国家に対して超然としていてはいけない」と語り、牧田氏は「危機の時代に教会は共同戦線を張れるか。最大の問題は教会が孤立主義に陥ること」と、指摘し、市川氏は「もし国家が本来の務めを果たさなかったり、自己の職分を越えて権限を行使しようとすれば(神からみことばと聖礼典をゆだねられた)教会は、神の言葉から批判しなければなりません」と説いた。
カルヴァン以来、教会と国家はキリストの支配の下にあるという二王国説を掲げてきた改革派は、20世紀になってネオ・カルヴィニズムに向かう。アメリカの神学者ヴァン・ドゥルネン教授は、今こそ改めて改革派の伝統である「二王国説」に立ち戻ることの重要性を提唱していると、澤氏は語る。「基本に立ち返ろうということです。政治家はクリスチャンであるというキリスト教的国家は、20世紀のアメリカを最後に今や崩壊しています。そこに危機感を持って、もう一度そんな世界を復元しないといけないと思っている人もいますが、聖書を読めば、新約聖書の世界はキリスト教世界でないことはわかります。クリスチャンは圧倒的異教世界の旅人だったのです。異教社会の日本でのクリスチャンの生き方は、旅人として生きるということではないでしょうか」
「隣りの韓国に行くと、教会の数も信者の数も桁違いです。教会とクリスチャンの課題が、この国をキリスト教化するのが使命なら、1%以下のクリスチャン数は絶望的です。それが至上命令だと言われれば、ずっと自信喪失の状態に留まらざるを得ませんが、ヴァン・ドゥルネンが書いているように、キリスト教社会は目標ではない。キリスト教国家はすでに欧米ですら過ぎ去っています。私たちのモデルはバビロン捕囚です。いつか帰還することを待ち望み、バビロンの平安を祈りつつ、神の恵みの元に置かれていることを感謝して生きる者です。人数が少なくても、私たちは証しを立てられます。すべての人を敬い、すべての人と共に生き、力を尽くして神の国を追い求めることを、心に刻みたいものです」