日本ウェスレー・メソジスト学会(田添禧雄会長)の第22回総会・研究会が9月13日、オンラインで開催された。当日は河野克也(ホーリネス・中山教会牧師)、原田彰久(東京聖書学校舎監)、坂本誠(ナザレン・下北沢教会牧師)の各氏による研究発表と共に、「コロナ禍の教会」(ウェスレーとメソジストの視点から)をテーマにパネルディスカッションが開かれた。

坂井哲博氏

パネルディスカッションでは、坂井哲博氏(青森中央学院大学・看護学部教授)が「医師から見たコロナ禍の教会」、立石真崇氏(救世軍・神戸小隊士官)が「救世軍の礼拝と働き」、林牧人氏(日基教団・西新井教会牧師、更新伝道会書記)が「コロナ禍の聖餐」と題して発題した。
坂井氏は医学的な知見、弘前大学の事例などを紹介しつつ、「感染予防策は手洗い、換気、衛生が肝であることに変わらない。恐れず、しかし侮らずということ。ウェスレーは1725年以降、キリスト者の実際的な生活に言及している。それはスチュワードシップがベースになっており、コロナ禍の現代にも重要な視点だ」と指摘。「コロナ禍にウェスレーが生きていたら、『よけいなものが感染しないよう徹底的に自分の中身を空にし、天のものだけに満たされ、周囲の人に感染する者となるように』と言われたのでは」と語った。
立石氏は、コロナ禍での救世軍の動向を紹介。「救世軍の最高責任者『大将』が各国を訪問できず、代わりにSNSを積極的に使い、メッセージを発信している。救世軍の音楽の特色としてブラスバンドがあるが、楽器の使用に制約が生じている。洗礼と聖餐は、霊的意義を認めつつも儀式としては行わない立場を取るため、礼拝のオンライン化にあたり聖餐執行を巡る動揺や議論はない。コロナ禍においても支援・救援活動は各地で継続し、人種差別、人身取引、難民等の課題にも目を向けている」

立石真崇氏

日本の救世軍では、礼拝をオンライン形式で実施し、20年冬の社会鍋は「ラッパを吹いて協力を呼びかける」方法を自粛。災害救援活動も県境を越える移動が制限され、困難になった。「救世軍はウェスレーからみれば支流であるが、人の救いを心、体、実生活、関係において全人的にみる視点を受け継ぐ。ただし現状は信仰と奉仕を深く結びつける救世軍のあり方に影響が出ると考える。デジタル格差の対応も課題である」と語った。
林氏は、「教団内では各個教会単位でコロナ対応をせざるを得ない状況が続いている。西新井教会では、コロナ対応の判断基準としてカトリック東京大司教区、日本聖公会東京教区のコロナ対応指針を参考にした」と語る。
その上で「霊的陪餐」に触れた。「『霊的陪餐』は、英国教会祈祷書の病床聖餐の式文で、物理的に聖餐に与れない場合に薦められているもので、それがコロナ禍に援用されたものである。いわゆる『オンライン聖餐』とは別物だ。アングリカンのみならず、教会の形を同じくするメソジストでも『霊的陪餐』を選び取ったところが少なくないが、『オンライン聖餐』に容易に踏み出す傾向も見られる。対応はメソジスト内で分かれている」

林牧人氏

メソジスト伝統の聖餐理解の特質にも触れた。「ウェスレーによる『ハンブルアクセスの祈り』(クランマーによる祈祷書)の再評価がある。『恵みの座』での跪座陪餐とセットで捉えられる『招かれた罪人の食卓』の理解、キリストの『肉』を食べ『血』を飲むという体験を伴うリアルプレゼンス(真臨在)の強調による『赦し』のリアリティーがある。だが後年、メソジストにおいて聖餐のリアルより悔い改めという主観とセットの臨在体験に変質し、それは式文にまで及んだ。約1世紀を経て回復しつつも十分でない。コロナ禍においてこそ、ウェスレーの理解に立ち帰る意義がある」
「礼拝公開ができなかった時期の『霊的陪餐』の薦めと実践は、再び集えるようになったとき、聖餐に与(あずか)ることにおいて、より深いところでの体験に導かれたと思う。まだまだ答えの見えない中、都度決断しつつコロナ禍の福音宣教を続けたい」と語った。
発題後、発題者同士での質問、参加者からの質問の時間をもった。

クリスチャン新聞web版掲載記事