写真=津波とともに運ばれたがれきは
教会堂(右)手前で止まった

東日本大震災発生時、学生だった私(記者)は、当時所属していた仙台福音自由教会(以下仙台教会)の震災支援活動に合流した。岩手県陸前高田市の日本ベテル・ミッション・陸前高田キリスト教会(森田為吉牧師)を訪ねた。【高橋良知】
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前回まで

序 いわきから関東、再び仙台へ

①東北を祈る中で震災に直面

②通信困難な中、安否確認

③忍耐の一週間と支援の開始

④仙台から陸前高田へ

⑤陸前高田唯一の教会

「たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても…」。陸前高田キリスト教会は震災の2か月前から詩篇46篇(新改訳第三版)を暗唱聖句として壁に張り出していた。「まさしくその通りになるとは」と森田さんは当時を振り返る。震災数日前には、海に塩柱が見えたなど前兆と言えることはいくつかあった。「妻は震災前に夢で『津波は来るけれど教会まで上がっては来ない』と聞いていました」

 

2011年3月11日

「小雪の降る寒い午後でした。遅い昼食を済ませて一息していたら突然下から突き上げるような勢いで揺すられ、茶だんすを抑えながら主よと叫びました」
防災放送が鳴り続け、多くの人が山の方へ避難した。市中心部が津波でのまれ、やがて放送は消えた。

「比較的平地の陸前高田市は、7、8分ほどで壊滅状態になった。…町は真っ黒い煙や土ぼこりを上げ、家は燃えながら海のほうに流されていった。私は『神様、止めてください』と涙を流しながら祈った。あまりに残酷で恐ろしい光景だった」クリスチャン新聞12月4日号)。

がれきは教会堂の手前で止まった。だが付近の道がふさがれ、数日間公民館で泊まった。電気は2か月、水道は6か月通らなかった。山側の給水所までポリ缶40キロを担いで取りにいった。森田さんは当時74歳だった。

 

3月22日

自衛隊が用意した仮設風呂から戻ると、教会前に一人の男性が立っていた。仙台教会のボランティアだった。
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私たちはがれきの山をリレー方式に手渡しして、米袋や灯油、日用品を教会まで運んだ。

「皆で涙ながらに祈りあい、手を振って別れました。何ともやりきれないがれきの山で先生の姿が見えなくなった時、思いました。『全てが夢であったらよいのに』と。けれども、現実はそこにありました…このような教会の再建こそ、私たち教会人に託された使命ではないか。そう思わされた一日でした」石巻福音自由教会ブログ内「支援活動ブログ」同日)

門谷信愛希さん(仙台福音自由教会副牧師当時)はこの日の動画や写真をSNSなどで共有した。それらを通じて様々な団体・個人が支援に訪れるようになった。

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国内外から多様なボランティアが訪れた。礼拝で英語、韓国語などの通訳を交じえたこともあった。マジックや韓国の踊りなど多様なイベントも開かれた。3・11いわて教会ネットワークとつながり、合同の祈り会が開かれた。東京のウェスレアン・淀橋教会で毎月継続される震災のための祈り会にも2回招かれた。

「町内会長がクリスチャンの支援活動に感銘を受けて、定期的に聖書の話を聞く会を開く提案してくれた。ただなかなか長続きはしなかった。いざとなると教会が地域にかかわるのはなかなか難しい」とも苦労を語る。

10年がたち、まちの人口は約半分になった。中心部は空き地が目立つ。近隣も以前60戸あったが、27戸に減った。7~8割は80代だ。教会員で移住した人もいる。ただ片道2時間かけて盛岡市から礼拝に通う人もいる。
コロナ禍で、医療関係者は礼拝出席を自粛している。「何とか現状維持。ただ5年たったらどうなるか」と心配する。

市内にできた「未来に伝えたい碑」には「地震が来たら津波を思え、遠くではなく高くへ逃げろ てんでんこに急いで」と教訓が記されている。「悲しいことですが、近隣では津波発生時、一人上着を取りに帰ってなくなった人がいました」

最後にこう祈りを要請した。「真理の回復を願う。生きている間に、イザヤ35章にあるようなリバイバルを見せてくださいと祈っている。地震が大地を揺すぶったように。神よ今、私たちの心を激しく揺すり目覚めさせてください。新しい御業を行ってください。この年の間に。ごいっしょにお祈りに加わってくださいませんか。田舎の小さな教会、今もここに灯をともしています」(つづく)

クリスチャン新聞web版掲載記事)