今回、10月31日衆院選の投票率は56%を下回り、相わらず低かった。いくら国民主権の民主主義を採用していても半数近くが選挙に行かない。その弱点がこの9年間の自公一強の政権下で続いた。政治権力側の民意の無視が常態化し、政治への諦めが広がった。

その危機感から野党共闘が進み「政権選択」のかけ声も一時あったが、その内実は遠く及ばなかった。与党共闘が小選挙区で候補者を完全に一本化しているのに、野党が候補者を一本化できなければ票が分散し、与党圧勝は目に見えている。こうした選挙制度の弊害もあり、日本では民主主義の原則としての与野党の政権交代は起こりにくい。人心の一新はならなかった。

日本で英米型の二大政党制と小選挙区制は合わず、もし多党制でいくならばヨーロッパ型の比例代表制を主にするしかない。今回、野党の中心にあった立憲民主党の議席数は110から96に減った。

党首の枝野幸男氏がその「ビジョン」で、明治期からの中央集権の弊害を説きそこからの転換を訴えても、これが大衆受けしない。国民性は保守的で大きな価値観の転換ができず、明日の生活に心を奪われ、長期的な展望が描きにくい。政治家も目先の当選に必死で、気候変動、エネルギー問題、人口減少、一極集中是正など大きなビジョンを掲げない。

 

 「中間」が民主の訓練

国政の要とは、ミクロには人の生命を尊重するか、マクロには法に則った正義と公正のビジョンが行われるか、である。そのための情報公開と説明責任は必須であり、公文書の隠蔽・改ざんなどもってのほかだ。この点では安倍・菅政権の9年間は落第点であった。

貧富の格差を助長する「新自由主義」(詳細は拙著『日本型新自由主義の破綻』参照)は、岸田政権になっても「転換」できないだろう。「転換」のうたい文句が当初は掲げられたにしても、いざ選挙が始まると派閥勢力の圧迫からうやむやになってしまっていたからだ。

代表制民主主義は地域住民の中から始まる。個人的に握手できる仲の「善い人」を選んでも、政党全体で「悪い政策」を取っていれば個人の「善意」は死んでしまう。これがミクロに個人の道徳観を問うキリスト者の感覚と、マクロにイデオロギーが支配する政治の世界が大きく乖離(かいり)する理由であり、教会で政治が語れない理由である。

政治が国政選挙のお祭り的なイベントで尽きるわけではない。ミクロとマクロの中間の市民社会でこそ民主主義の訓練はなされていく。地域の身近な生活世界から立ち現れる諸問題、これへの自治的な取り組みである。ここでの「異質な他者」との対話、熟議により創り上げる相互扶助の仕組みづくりを目指すことだ。ところが地域に深く関わっていけばいくほど、これが極めて法的に不備であることが分かってくる。

代表者に何もかも託す代表制民主主義でなく直接民主主義(住民投票)を志向しても、それが制度的に確立されていない。筆者の経験では、国政の不正義のミクロ版は地域政治にそのまま表れている(写真記事参照 https://www.asahi.com/articles/ASNC972H5NC9UULB001.html 朝日新聞2020年11月10日

地域での地道な取り組みなくしてマクロでのまともな国政につながるとも思えない。だからこそ、地域住民に寄り添う教会がこの問題に敏感に反応しうるはずだ。

政権与党には圧倒的に二世・三世議員が多い。そうすると既得権益の諸分野が形成され、特権的身分制度の固定化となり、さながら江戸時代のように「支配する側」と「される側」が固定化する。選ぶ地元庶民側の意識も保守的に固定化する。

「正義」より先代からの人情的つながりが選挙に持ち込まれる。例えば、今回選挙の焦点の一つはコロナ対策であった。感染防止の根本は科学的に「検査と隔離、病院体制」の確立であったにもかかわらず、これに失敗し第五波まで許してしまい、医療崩壊が起こった。生命尊重の緊急の手続きが、固定化した既得権益の壁に阻まれたことが一つの原因であり、そのため庶民経済もがた落ちとなった。

 

 「他者」との対話と共闘

政治とキリスト教信仰との接点は、身体性を備えた「正義」と「公正」の実現である(温暖化や環境正義、老若間や男女間の不公正)。教会はキリストの「体」であり、「かしら」なるキリストは「神の王国」の王(統治者)として君臨しているはずだ。「神の王国」がこの世に入り込んできた以上、正義と公正に則った統治形態(政府)を作るのはキリスト者の大きな責任である。

正義と公正は法の原点であるし、政治は法に基づいていなければならない。そして「正義」のルーツは「神の義」である。旧約の預言者だけでなく新約の中心にこそある。なぜなら「今や律法と預言者たちの書によって証しされて神の義が示された」(ローマ3・21)。こうして現れたイエスは「神の国」の到来を告げ、「義に飢え渇く者」「義のために迫害されている者」は幸いだ、このように教えているのだ。日本のキリスト教はそろそろ霊肉二元論を脱却し受肉の創造神への献身と、「異質な他者」と対話し共闘できる公共性に思いを致す時ではないだろうか。

稲垣久和=東京基督教大学特別教授)

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