五輪で分断露呈

東京五輪強行実施、新型コロナウイルスのデルタ株急速拡大期にスポーツの国際一大祭典が終わった。2013年9月の招致の時点から様々な黒い霧に覆われた「TOKYO2020」の惨めな終焉(しゅうえん)であった。長年のデフレ脱却のための政策と称し安倍・菅政権のこの祭典に賭けた期待は並外れて大きかった(筆者の居住地域が被害を受けている「羽田新ルート」もその一つ)。

しかし、昨年初めに誰も予期しなかったグローバル・パンデミックが勃発した。以来、五輪開催はこの哀れな極東の国を揺さぶり続け、政権は迷走を続けた。国民の生命よりもマクロな経済成長を優先する政策のゆえだ。国民の持つ「価値観」の分断がこれほど露わにあぶり出されたのは戦後初めてだろう。1990年のバブル崩壊も、2011年の大震災・原発事故も社会的衝撃は大きかったが、今回は「第2の敗戦」と言ってもいいほどの無残な打ちのめされ方だ。

筆者はすでに昨年12月、一般向けに上梓した『日本型新自由主義の破綻―アベノミクスとポスト・コロナの時代』(稲垣久和・土田修共著、春秋社)の中で書いた。「第一の敗戦」を招いた国民的イデオロギーが「天皇を利用した国体」であったとすれば「第二の敗戦」の国民的イデオロギーは何か。それは「日本型新自由主義」である。人間観が「経済人間」(ホモ・エコノミクス)から「倫理人間」(ホモ・エテイクス)に転換しない限り、ポスト・コロナの日本はもはや持続可能にはならない、と。神学的メッセージに翻訳すれば、この転換とは心の「回心」であり、「悔い改め」である(全人類を巻き込んだ今回パンデミックの神学的意味については筆者の別稿参照)。

コロナ感染の初期の頃は「感染拡大の阻止」と「経済を回す」ことを両立させようとした。中途半端なところで緊急事態宣言を解除してしまい、これをダラダラと繰り返すうちに、人々は政府を信用しなくなった。経済も回らなくなってしまった。「経済」はもちろん重要であり、あるところまでの経済成長は国民を貧困から救うために必要である。国民全体が豊かになるための手段が経済成長であり、経済成長そのものが目的ではない。成長の果実は、「善い政府」ならば国家の再分配機能を使って人々に公正に行きわたるようにする。「悪い政府」は富の偏在を助長する。コロナ禍は普段見えにくい現代の「構造的悪」をあぶり出し、万人の下にさらけ出した。

「悪い政府」に対し、江戸時代ならば庶民は泣き寝入りである。民主主義社会では「悪い政府」を交代させることができるし、交代させ得ないとしたら今度は国民の側の責任である。民主主義は、一歩間違えば衆愚政治(ポピュリズム)そのものである。総選挙前の国際的“お祭り”の強行開催は、大きな経済損失を与えてもなお、政権浮揚のための「パンとサーカス」の典型的な愚民政策だった。愚弄された民衆はやり場のない怒りを感じている。政府の腐敗を防ぐための「地の塩」はいったいどこから提供されるのか。「神の義」とは何か。「義に飢え渇く」とはどういうことか。良心ある市民から教会に突きつけられている問いは余りに大きい。導きの灯は「神の像」として創られた人の命の尊厳の擁護、イエスの「神の国」の教えである。

「鎖国」に敗戦要因が

「第一の敗戦」の直後、倫理学者の和辻哲郎は『鎖国』を著した。敗戦に至った国民精神の歴史的研究として至り着いたのが「科学的精神の欠如」である(1950年)。次のようにある。「合理的な思索を蔑視して偏狭な狂信に動いた人々が、日本民族を現在の悲境に導き入れた。が、そういうことの起こり得た背後には、直感的事実にのみ信頼を置き、推理力による把捉を重んじないという“民族の性向”が控えている」。
何と、今日のコロナ禍によって政権担当者が国民を悲境に導き入れた原因と同じではないか。
ただ「偏狭な狂信」のイデオロギー内容は当時と現在では異なる。異なるとはいえ、歴史的考察を通してみるとそれほど大きな違いはない。どちらも国際緊張の中で日本がどう生き残るのか、という国の指導層の判断だからだ。多くの国民も下からそのイデオロギーを支えたということだ。
では、いつ頃からこういった“民族の性向”が定着したのか。和辻の答えは実に興味深い。鎖国の頃からだというのだ。ところが鎖国の250年間に西洋では民主主義と科学が発展し、それに貢献したキリスト教の役割はとてつもなく大きかった。こういう事実を日本人キリスト者は知るべきである。

 

「主権者」の証を

どちらかと言えば尊皇思想家に近かった和辻が、『鎖国』の中でこう書いている。「鎖国という日本の悲劇」の原因が当時の権力者のキリシタン排除だった、と。当時のキリシタンは、政権批判をしたわけでもないのに権力者から排除され、殉教していった。それがまさに日本社会が多様性を失った理由だ、と。そこから400年以上経って形成されてきた今日の国民「主権」の民主主義下では、キリスト教は排除されないし政権批判も自由である。ただし、今度こそ日本のキリスト者は本来的な「主権者」を証しすることに失敗してはならないのだ。規範性のない日本文化が、今イエス・キリストを必要としている理由がここにある。

2021年8月22日号掲載記事