坂本氏「ウェスレー神学の特色、魅力とは」 神の創造に人間の責任ある行動 第22回日本ウェスレー・メソジスト学会研究発表③

日本ウェスレー・メソジスト学会(田添禧雄会長)の第22回総会・研究会が9月13日、オンラインで開催(9月26日号で一部既報)。当日は河野克也(ホーリネス・中山教会牧師)、原田彰久(東京聖書学校舎監)、坂本誠(ナザレン・下北沢教会牧師)の各氏による研究発表が行われた。今回は坂本氏の研究発表「ウェスレーの聖化概念の魅力 社会的共同体的聖化を目指して」

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以下は研究発表の要約。
─ウェスレーは22歳で内的聖潔(Holiness)を目指し祈り始めたが、「完全な聖潔は存在しない」という証言から、彼に与えられたのは絶望だった。
聖化(Sanctification)を考える上で重要なのは、モラヴィア兄弟団との出会いであり、論点は①義とされたキリスト者、②全くきよめられたキリスト者、の相違だった。モラヴィア派の教理では、真のキリスト者は回心においてすべての罪が赦されるという考えであり、①と②の相違はなかった。

だが、ウェスレーの立場は、罪は支配しない状態であってもまだ残っているのだから、その罪は克服されていかなければならない。その意味で、②の聖化論が必要だった。だが、ウェスレーにおいて両者は切り離されておらず、平等に強調される。主から与えられた恵みは不可視の恵みではなく可視的な恵みであり、内的な聖潔をへて外側へ現れるものであることが示されている。

では義認と聖化はどう違うか。義認が人間に対する一回的な行為であるのに対し、聖化は人間の側の継続的、漸次的な成長過程のことである。義認が人間を神との交わりの中へと回復し、新しい生活へと方向づける神の行為であるならば、聖化は神との交わりに入れられたものにふさわしくなっていき、新しい生活への方向づけが経験的に具体化していく過程である。神の行為としての義認は不可視だが、経験的な成長過程としての聖化は可視的だ。ウェスレーの特色は、聖化を過程としてのみでなく瞬間的にも理解した。ここにウェスレーの積極性がある。
ウェスレーの用語は多様で様々だ。
「全き愛」は神との関係における完全を意味し、神と人間との間の完全な交わりであり、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ」(マルコ12・30、新改訳第三版)という聖句が最も当てはまる。「全き愛」は、感情的なものというより「動機の純粋さ」を意味するものとして用いられている。

「キリスト者の完全」は「全き愛」の内的な体験、そこから生まれる動機の純粋さ、あらゆる罪からの意識的な解放、御霊の実、神の御旨に対する自己否定と服従、そしてキリストの御姿に到達する可能性である。

「全き聖化」については、①神が聖書においてそれを約束されているという神からの明示と確信、②そう約束された神は、それを成し遂げられるという神からの明示と確信、③神はそれをなし得る、しかも今それを喜んでおられるという神からの明示と確信、と語る。自分の努力というより、神が人間の持つ不可能性を覆い、可能としてくださる神の業としての全き聖化、それが死んだ後ではなくこの世においても可能だという積極思想だ。

ちなみに、「全き」のへブル語はツァデクで、堅固な、平らな、率直な、の意。ギリシャ語はテレイオーで、成就する、終局に導く、ある水準または標準に到達する、を意味し、新約聖書に25回使用されている。興味深いのは、へブル語のシャーレームで、それは陶器などの器のかけらを意味し、断片ではあるが復元可能であるという意味を含むもので、全体性を意味し、全体的な心、精神、魂が愛する関係において神に捧げられている状態を指す。
聖化は、我々が義とされた瞬間に受ける、神と人とに対するきよい、謙遜な、柔和な、忍耐深い愛に始まる。それは義認の瞬間から徐々に成長し、やがてもう一つの契機(瞬間)に罪をきよめられて、神と人とに対する純粋な愛に満たされる。しかし、この愛さえもさらに成長し、やがて「すべての点において頭なるキリストに成長し」、やがて「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」(エペソ4・13~15参照)のである。

ウェスレーは人間の本質がアダムの原罪において堕落しているという考えを持っていた。だが、罪の中に陥っている人間を神は造り変えられる。人間の生活は変容のプロセスであり、瞬間の連続だ。人間は新しく創造された存在である。ゆえにウェスレーの聖潔と聖化の教理は創造の教理なのである。神の創造に参与する人間の責任ある行動、これがウェスレー神学の特色であり、魅力であると信じる。

ウェスレーの聖化論は、個人的なレベルでなく、社会的・共同体的に展開されている点が重要である。ウェスレーは、宗教を本質的に人と人との関わりの中で行われるものであり、関係性を離れては宗教は成り立たないのだという宗教観を持っていた。この定義を基本に、第一に英国教会の改革、第二にそれにより国家全体の改革を目指した。それについて、こう語る。「改革ということで私が意味しているのは、神の冷静の愛と相互愛へと彼らを戻すことである。それは正義と憐れみと真理の統一された実践へと戻すことである」

ウェスレーはまず「神の冷静の愛と相互愛へと彼らを戻し、聖なる気質を持ち、聖なる生活を行う」ことを重視する。筆者には、この表現は聖化思想と社会的責任の融合のように思う。聖なる気質を宿した者がそれを生活においても実践、相互愛を実現しながら個人的、社会的幸福を実現するのである。

慈悲を隣人愛と同一視していたことも理解できる。ウェスレーにとって、心のきよさは隣人愛とつながっている。L・О・ヒンソンの著書『国家を改革する為に─ウェスレーの社会倫理の神学的基礎─』によれば、ウェスレーの社会倫理は、国家の改革であるという時点で社会的な要素を含んでおり、総合的に見れば神との和解が改革の前提であって、神との和解(神学的な側面)、人と人との和解(社会的)、自己と自己の和解(個人的)、人と自然の和解(宇宙論的)と多次元に展開されるものだという。和解の福音はすべての人に啓示され、和解の働きは進行中で、終末に向い進行していくものである、と。

また、ウェスレーにとって回復も重要である。回復は神の像の回復でもあり、その回復は愛によって働く信仰により生活の中で展開されていく。

ウェスレーの鍵となる用語は「愛によって働く信仰」だが、その基礎はキリストにある神の愛に人間が全存在をかけて愛によって応えることである。その前提として、神の愛が信仰者の中に注がれることがある。キリスト者の愛の対象は第一義的には神だが、第二義的にそれが人に向かう。そこで重要なのが「愛によって働く信仰」であり、これは「すべての義と聖潔の真の基礎」である。

信仰と愛との関係についてヒンソンは、愛が信仰より偉大だと考えていたとする。出発は信仰による義認であり、信仰がすべての基礎にある。だが、「ウェスレーにとって、信仰は愛を生み出し、愛は信仰から成長し、よき業を生み出す。信仰は愛の道具であり、愛、よき業、ホーリネスが目的である」と語る。T・マイスタードも著書の中で、ウェスレーにとって神との緊密な関係は、隣人、社会、神の被造物との関わりへとつながるとしている。

ウェスレーが奴隷制度に反対していたのは有名だ。その理由について、1737年の手紙の中で、一人の少年が奴隷制度により教会に行けなくなったことを聞き、奴隷制度は福音伝達の手段を無くすという理由で反対している。

ウェスレーの恵みの手段には、敬虔の業と共に慈愛の業が含まれている。それは聖なる気質が形成されるところには、不必要な食糧や、家具、衣類への執着、時間や金銭の無駄遣いへの戒めが存在し、キリスト者の全生活を規定していくからである。神はすべてのものの所有者で人間はその管理者だとし、管理者は神から与えられるものを賢く管理し、最大限に用いることが必要となる。

また、R・ハイツェンレターはその著書で、メソジストに関わった多くの貧しい人々は未雇用であり、仕える姿勢(スチュワードシップ)と貧しい人への関心は、メソジスト運動の頂点となっていったとする。T・A・キャンベルは、ウェスレーの貧困の概念は中世の「使徒的貧困」「貧しい人々におけるキリストの像」という概念からきたとすえる。ウェスレーによれば、この貧困は救いに至るための最初のステップでもあった。

以上、ウェスレーの聖化論の魅力を考えてきた。ウェスレーのこのような倫理原則は、完全論と関わっている。その倫理思想には、共同体的な広がりがある。キリスト教倫理を「不可能の中の可能性」と捉えることができるが、ウェスレーはもう一歩進めて、キリスト者の倫理が、この地上で現に実現可能であることを強調する。まさにウェスレー神学の特色である恵みの楽観主義が現れているのではないだろうか。
(講演等はYouTubeの「日本ウェスレー・メソジスト学会」で視聴できる)