写真=東松島市で支援した東京基督教学園のチーム。門谷さん提供

東日本大震災発生時、学生だった私(記者)は、当時所属していた仙台福音自由教会(以下仙台教会)の震災支援活動に合流した。【高橋良知】

前回まで

序 いわきから関東、再び仙台へ

①東北を祈る中で震災に直面

②通信困難な中、安否確認

③忍耐の一週間と支援の開始

④仙台から陸前高田へ

⑤陸前高田唯一の教会

⑥津波は教会堂手前まで

⑦震災前からの困窮/会堂流出の現場

⑧再建と地域の魂への思い

⑨仙台から気仙沼へ

⑩悲しみだけではない日常がある

11高齢化進行、だからこそ良い関係

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沿岸救援チームが動いているころ、仙台教会会員の広瀬志保さんは教会堂の応接間にいた。当初14日に東京都羽村市の聖書宣教会で入学試験を受けに行く予定だったが、様々な関係者の尽力で、10日後に遠隔で受験することになった。メールで送られた試験問題を吉田耕三牧師立ち合いで受けた。前後に支援活動をしながらの受験だった。

 

 3月25日

この日デボーション誌「マナ」の個所は黙示録3章14~22節。20節で「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく」(新改訳第三版)とあり、解説には「キリストは、自己満足のゆえに心の戸を閉ざし、主との交わりを欠いていた教会に語っておられます…」とあった。日ごろ仙台教会でよく引用された聖句だ。
朝、中部、名古屋、関西からの救援チームは帰路についた。残る沿岸救援チームは、物資不足という情報があった七ヶ浜町の複合施設「七ヶ浜国際村」をめざした。付近は、小さな入り江が多くあり、津波被害を受けた低地と平穏な高台の落差が激しかった。道を何度も迂回し、到着した。野菜類が不足とのことで、物資が喜ばれた。
日用品の物資が残り、東京基督教大学がボランティアしている東松島市をめざした。このチームには、仙台教会会員で当時2年生だった大葉信人さんがいた。

 

 3月11日

大葉さんは、千葉県印西市の東京基督教大学チャペルで在学生として卒業式に出席していた。式の祈祷中に地震が起き、揺れはどんどん強くなった。「教授が『外に出てください』と叫び、みな急いで逃げました」
「寮に戻ると、みなテレビがあるエントランスで、黙って映像を見ていた。海岸に車が走っていて、アナウンサーが『海に近づかないでください』と叫ぶ映像が何度も流れていた」と振り返る。

 

 3月13日以降

13日の日曜は、千葉県の奉仕教会で子ども礼拝のメッセージをしたが、「暗かった」と話す。「自分自身が暗い気持ちだった。仙台が実家とiいうことで、教会の皆さんが心配して声をかけてくれました」
家族と何とか連絡が取れたが、「帰ってこない方がいい」と言う。学校は春休み期間、地震の影響でバイトも休みになり、「もうとにかく心が落ち着かない」という日々が続いた。

そんな中、東京基督教学園としてボランティア活動が立ち上がり、すぐに応募した。物資を調達して、23日朝出発した。

東松島市では、津波で浸水した聖協団・宮城聖書教会を中心に、地域の家の泥出し清掃をした。「家も思い出の物もすべて流されたという被災した方々の話を聞きました」

 

 3月25日

仙台教会のチームは東松市に到着した。リーダーの門谷信愛希さん(仙台福音自由教会副牧師当時、現古川福音自由教会牧師)は「近づくと、町全体が泥だらけ。厚さ10センチはあろうかというヘドロが庭先や家の中まで覆い尽くしていました。悪臭が鼻を突き、衛生状態の問題はすぐに理解できました。重いヘドロを除去するには多くの人力が必要そうでした…」(石巻福音自由教会ブログ内「支援活動ブログ」)と報告する。

宮城聖書教会前で行われていた物資配給コーナーに献品すると、物資は次々と無くなった。毛布は自衛隊が大量に支給したと思われていたがニーズがあった。浸水で寝具を失っても住み続ける人がいたからだ。「やはり物資運搬というものは、実際に現地に行ってみないと分からないものであることがよく分かった一例」と振り返る。

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宮城聖書教会の田中時雄・久美子牧師夫妻(当時)は、震災後行方不明だったが、5日後に聖協団のチームに発見された。

 

 3月16日

東京の清瀬グレース・チャペル菅谷勝浩牧師ら聖協団理事のチーム4人は田中夫妻の消息を探し、15日から現地へ駆けつけ、教会近くの避難所を回った。覚悟して遺体安置所も回ったが見つからない。ガソリンも無くなり仙台に戻ると、仙台在住の田中夫妻の次男が訪れた。「父たちは津波の危険を知っているので海の方にはいかない」と言う。

夜中だったが改めて、東松島市役所の避難所へ向かった。入口で「田中先生」、「お父さん」と声をかけた。すると足元から声がした。「はい、私です」
(つづく)【高橋良知】

クリスチャン新聞web版掲載記事)