2011年の震災の翌年から続く「東日本大震災国際神学シンポジウム」(主催=青山学院宗教センター、お茶の水クリスチャン・センター、学生キリスト教友愛会、キリスト者学生会、 キリスト全国災害ネット、東京基督教大学、日本福音同盟)の第7回が2月7日にオンラインで開催された。

今回のテーマは「いかにしてもう一度立ち上がるか:これからの100年を見据えて」。英国オックスフォード大学教授で神学者のアリスター・マクグラス氏を主講師に、日本からは森島豊(⻘山学院大学准教授)、吉田隆(神戶改革派神学校校⻑)、菊地功(カトリック東京大司教)の3氏が講演した。「回復と再生―災害に対するキリスト教的応答の考察―」と題して行われたマクグラス氏の講演を抄録する。【髙橋昌彦】

 

東日本大震災国際神学シンポジウム関連記事はこちら

 

神が悪や苦しみとどう関係しているかという問いは、人類の歴史と共にあったと言えるが、古代や中世においては悪や苦しみが神への信仰と矛盾するとは考えられていなかった。世界は確かに危険や問題に満ちているかもしれないが、その中にあっても生きることを神は助けてくださる。つまり、危うい人生を歩むもろい存在である人間にとって、神こそが生命線だった。

それは初代教会においても同様である。その思想的風潮が変化するのは、やっと18世紀以降である。「自然災害があることはこの世界に一貫性も意味も存在しないことを示している。それ故、神を信じることは不可能だ」。私自身も元々は無神論者で、「神がいるなら、悪や苦しみなど絶対存在しないはずではないか」と考えていた。しかしそれは、私の中に「世界はこうあるべきだ」という思い込みがあり、その先入観によって世界に判断を下し、神をも裁いていた、ということである。

 

人間の自然界への期待

 

現在生きている私たちは、この世界に対して非現実的な期待をしてはいないだろうか。初期のクリスチャンたちが自らの人生に関して持っていた期待は、比較的小さかったと言える。苦しみや病気はよくある日常の出来事で、人生を狂わすものなどとは考えられていなかった。

一方、人間の知恵で自然現象を制御することは可能であり、自然災害によって引き起こされる苦しみを終わらせることもできるに違いない、という非現実的な期待が生じたのは、人々が「人類の進歩は限りなく続く」という啓蒙主義の言説を信じるようになって以降である。さらには、人間が自然の生態系の一部を支配することで自然をより役立たせることができる、という期待もあった。

しかし、その人間の行為が生態系全体を乱し破壊する結果になってしまったことは明らかである。それでも、自然災害をこの世界に構造上の欠陥がある証拠だとみなし、それ故神を信じることはできない、と主張する人もいる。

 

自然災害と神への信仰

 

18世紀の英国の哲学者デイビッド・ヒュームは「この世界はあまりにひどい状態にあるため、愛と知恵に満ちた神によって創造されたと考えることは不可能である」と主張した。私も以前は、欠陥のある傷だらけの世界は、愛と知恵に満ちた神の存在と矛盾する、と考えていた。

しかし、どうしてこの世界が欠陥品だと判断できるのか、それが欠陥かどうかの基準となる「良い世界」はどこにあるのか。実際そんなものは存在しないし、私たちが「世界はもっと良いものであるべきだ」と主張するのは、ただ感覚的に強くそう思うからなのにすぎない。

確かに私たちは、自分たちが経験している人生を思う時に、「何かがおかしい」と感じる。では、その感覚はどこから来るのか。それは私たちクリスチャンが、黙示録21章にある「新しいエルサレム」で描かれる、痛みや苦しみが過去のものとなった世界を知っているからであり、そこから現実世界を見つめるので、何がおかしいのかを知ることができるのだ。

そのあるべき姿を知っているからこそ、私たちはこの世界をより良くしていく歩みへと突き動かされていくのである。この新天新地のまだ見ぬ姿は、世界をより良いものへと変える主の働きに私たちが携わるための原動力となり、世界をより良くしようとする神学的な動機付けを与えてくれるものである。

 

自然の働きを科学的に考える

 

自然界に関して科学的に明らかにされている知見によれば、地震や津波、感染症は単に根絶可能な破壊的な現象なのではなく、むしろ生命の誕生に不可欠なものだ、ということである。

地震は、地殻を構成するプレートの動きであり、地球の表面の状態は常に変化している。この変化と再生のプロセスは生命が存在するために必要なものである。火星には動くプレートも存在しないし、生命も存在しない。これらはあくまでも自然現象であり、「良い」「悪い」といった倫理的な枠組みで捉えることはふさわしくない。そしてまた、これらは私たち人間も含めた生命の誕生に必要な自然の働きであるということも覚えなければならない。

自然の働きに関しては、そこに人間の手が加わる影響についても言及すべきだろう。それが自然災害のリスクを大幅に高めてしまっていることはますます認識されている。人間の活動が災害の大きさに影響を与えるということは、私たちは災害の被害者であるとともに、そもそもその被害の程度を左右する立場にもある、ということだ。この視点で災害を捉える必要性を強調したい。

災害は、聖書的な観点からは、学問的な神学としても、信仰的な霊性の本質に関わるものとしても、捉えることができる。前者はキリスト教信仰の内容について明確、正確かつ客観的に理解することを求め、後者は個人の内面の変化を願い、痛みやトラウマに立ち向かう抵抗力が強まることにつながる。

私は、神学と信仰的な見方は切り離せないものであり、互いに豊かにし合うものだと思う。その上で強調したいのは、人は神学的な説明以上のものを求めているということ、私たちに必要なのは信仰的な励ましであり、主にある歩みにおいて成長する道筋だ、ということである。

 

自然災害を信仰的に捉える

 

近年自然災害は、そこに人間のもろさを映し出すものと、捉えられるようになってきている。人間のもろさの視点から災害対策を考える時、人間自身の苦境からの回復力(レジリエンス)を高めることの重要性が見えてくる。この回復力を生み出すために、信仰は、個人や共同体が困難に対処し、その中で導きと意味を見出す助けとなる。

さらには、回復にとどまらず、それらの困難を通して成長するにはどうすれば良いのか。最近注目されているのは「外傷後成長」と呼ばれる枠組みであり、キリスト教にはこれがあるとされている。それは単に、悲痛な経験から回復するということだけでなく、人々がその経験を通して自分の人生について新しい意味を見出し、生きるための新しい力や、この世界と向き合う新しい視点を深めていくプロセスのことである。

キリスト教の核心であるイエスの十字架と復活は、外傷後成長の好例である。弟子たちは一度は落胆したが、一連の出来事を新しくより正しい視点をもって理解するようになり、非現実的な期待が打ち砕かれたところから新しい考え方が生み出され、新しい視点と新しい確信を持つことができた。

3・11を通して、日本のクリスチャンが新しい視点を得るためには、キリスト教信仰に根ざすと同時に、それは日本に特有の文脈に即した真に日本的なアプローチであるべきだろう。次の災害を見据えて、社会的に、組織的に、霊的に備えておくことが必要である。

クリスチャン新聞web版掲載記事)