「同じ痛み」で愛に動く 連載 石巻の“新しいこと” ~1~
写真=石巻キリスト教会(左)での物資配布の様子。震災当時。右奥が石巻駅。写真提供=長内慶満
前回は → 新連載 石巻の新しいことー序ー 2つの「川」
JR石巻駅を出ると、石ノ森章太郎の漫画キャラクター像が街のあちこちに立ち、川べりの漫画館、物産店や飲食店に人々が行き交う。旧北上川は、これら中心街をぐるりと囲み海へそそぐ。
東日本大震災の津波では市街地全域が浸水した。石巻駅北側100メートルほどの兄弟団・石巻キリスト教会でも浸水は1・5メートルに及んだ。2017年からは「石巻クリスチャンセンター」(11年発足)の建物が建ち、礼拝も継続する。本連載では、同センター開設にいたった諸教派の動きをたどる。【高橋良知】
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石巻で関係者が行方不明―。東京・豊島区の基督兄弟団本部で職員でもあった長内愛一郎牧師(東京新生教会)は、震災後、情報収集に追われた。石巻方面で津波にのまれたと見られる一人は、震災救援対策委員長の小野寺従道牧師が牧会する横浜教会の会員だった。
一週間後、東京教区のメンバーで石巻教会を訪ねた。町は悪臭がただよい、会堂の中はゴミが散乱していた。
当時の牧師は50キロ離れた仙台教会と石巻教会を兼牧していた。東京教区から毎週支援チームを派遣するようになった。
諸教派、諸救援団体の協力も得て、石巻キリスト教会を拠点とした、近辺一帯の泥かき、炊き出しなどの活動が広がった。
会堂が物資配布所となり、近隣の住民が列を作って集まった。「物を配るだけでなく、心と心のつながり」を大切にし、行列で待つ人にあたたかい飲み物を配ったり、いたわりの声かけや傾聴もし、必要な場合、その場で祈ることもあった。
4月24日イースター礼拝には地域の人たち50人が集った。
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愛一郎さんの弟の慶満さん(現・石巻キリスト教会牧師)は教職1年目で、茨城県小美玉市の基督兄弟団聖書学院の職員をしていた。3月中は、東京の本部事務所にとどまり、次から次へと届けられる支援物資の仕分け作業などに当たった。
4月には東京教区の牧師、教団内のボランティアチームとともに、合計2回(1回につき数日間の滞在)、石巻キリスト教会に車で支援物資を届けに行った。救世軍と協力して、地域の人たちにうどんなどの炊き出し作業を行った。
「被災地の方々に対して、愛を持って何かの支援をさせていただきたい」。無我夢中で、支援活動に携わった。
4月から鹿児島教会で副牧師に就任する予定だったが、約1か月遅らせて赴任した。被災地のことを心にとめつつ、2年間鹿児島での働きに従事した。
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石巻キリスト教会では、津波で信徒一人が亡くなった。石巻市の隣、女川町在住の内海修子さんだ。
祐也さん、修子さん夫妻は長く横浜で教会生活を過ごし、退職後祐也さんの故郷女川町に移住した。夫妻は自宅で地震に遭遇した。
祐也さんが崩れた屋根瓦にブルーシートをかけていると、津波が押し寄せてきた。慌てて高台に逃げたが、離れたところで暖を取っていた修子さんや近所の数人は津波にのまれた。
数日後、全壊した自宅付近を見回すと、修子さんの衣類や住所録が見つかり、各地に連絡した。捜索をしながら賛美歌を歌う中で、神から「安かれ、わたしだ」という声が聞こえた気がして慰められた。
避難所生活をしながら、町の震災対策本部死亡・行方不明者捜索室に何度も足を運んだが、そのうち体調を崩した。町外の弟の家に避難して通院しながら、体調の回復をまってふたたび女川に通った。
4月半ば、修子さんと見られる遺体の写真を捜索室で見つけた。4月28日、再会した修子さんは、すでに火葬され、遺骨となっていた。
5月7、8日の前夜式、告別式は、教会籍のある横浜教会で実施した。教会学校や会計の奉仕を務めた修子さんは、信徒と牧師の「調整役」だったとも回顧された。
「私と同じ苦しみや悲しみを受けている人々が、こんなにも多数いることを思うと心がとても痛む。修子は神様のそばに行くことができた。しかし、被災者の中にはまだ何も出来ないという方々がかなりいらっしゃる…」。このような思いで祐也さんは各地で震災の証言を語っている。
横浜教会では、その後も継続して震災支援にかかわることになる。「信徒が亡くなったことが大きかった」と小野寺牧師は語る。 (つづく)
(クリスチャン新聞web版掲載記事)