3月6日号1面:創造と復活の間で神の栄光を現す 日本ケズィックで小平氏
写真=小平牧生牧師
「みなキリスト・イエスにあって一つ」を標語に掲げ、半世紀以上にわたり霊的深化と刷新を求めてきた「第61回日本ケズィックコンベンション」(同東京委員会主催)が2月23日から26日までの予定で、「神の栄光に仕える聖なる生涯」を大会テーマに、対面とオンライン併用で開催された。
初日の聖会Ⅰ・Ⅱの講師はキリスト兄弟団西宮教会主任牧師の小平牧生氏。オンラインのみで配信されたバイブル・リーディングは英国ケズィック前最高責任者のジョナサン・ラム氏。
最終日には、日本イエス・キリスト教団荻窪栄光教会主管牧師の井上義実氏を講師に青年宣教大会が開かれる。Ⅰコリント6章12〜20節をテキストに、「からだの救いを尊ぶ」と題して語られた聖会Ⅰのメッセージを抄録する。(6面に関連記事)
創造と復活の間で神の栄光を現す
パウロは、「自分のからだをもって神の栄光を現しなさい」と言う。それは単に不品行を行わずにからだを清く保つという以上に、からだに対して積極的な見方を持ったクリスチャンの生き方と言える。
しかし私たちはからだを持つが故に弱さを覚え、罪の力にもがいているのも事実。ソーシャルディスタンスが求められ、教会でも礼拝のあり方、交わりとは何かが問われる今、この時を神の与えた意味のある更新の時期と信じ、私たちの「からだ」について思いを向けたい。
からだにおいて創られ、
からだにおいて罪を犯した
人間は神によってからだを持つ存在として作られた。
神はちりでからだを作り、息を吹き込まれたが、それは霊の何らかの存在があり、その器としてからだが作られた、ということではない。
ギリシャ思想に見られる分離した霊と体ではなく、むしろ霊と魂とからだという統一された存在として作られたということであり、同時に人を神ご自身の形として創造された神が、私たちのからだをはなはだ良いものとして作られたということを聖書は明らかにしている。
ところが、人間は神に背き創造者から離れた。背くとは、神の言葉に背くということだが、具体的には、からだにおいて「食する」という行為において行われたことは心に止めるべき。
人はその心の内面において罪を犯しただけでなく、からだにおいて罪を犯した。そのようにして堕落したからだを、パウロは「罪のからだ」「死のからだ」と、本来は神の栄光を表すべきものだったのにという思いを込めて呼んでいる。
からだは神が私たちに与えられた良いものであることは、創造において、キリストの受肉において、そして救いの完成であるからだの復活において明らかである。
しかしながら、創造と復活の間に生きる私たちがまとっているこの肉体は朽ちるからだであり、血肉のからだ。コリントの教会同様、現在の私たちも教会も、罪の支配のもとにあるという現実がある。
イエスはからだにおいて
救いを成し遂げられた
その罪の現実の中で目を止めるべきは、イエスはからだにおいて救いを成し遂げられたという事実。神が私たち同様、霊と魂とからだを持つ人となられた。空腹を覚え、痛みや疲れを感じられ、そしてその自分のからだを十字架の死に引き渡された。
それは、そのからだをもって救いを成し遂げるためであり、私たちにからだを含めた完全な救いを与えるため。
15節では「あなたがたのからだはキリストのからだの一部」と言っている。キリストが私の「からだ」を自分のからだの一部としてくださっていることは、厳粛に受け止めるべき。
だからこそ、あなたがたのからだが、キリストのからだでありながら、遊女のからだと一つになることなどあり得ないし、あってはならない。それは何よりも自分のからだに対して罪を犯すことであり、キリストのからだの一部とされた自分のからだの価値を、根底から覆すことだとパウロは言う。
所有者は神であって聖霊が住まう
からだにおいて救われ、からだにおいて完成される
よみがえられたキリストは、私たちに約束されている栄光のからだをあの弟子たちに表してくれた。主が再び来られる時、私たちは栄光のからだを持って復活する。それは、私たちとこの世界に対する神様の救いのご計画が完成する時であり、その時を私たちはうめきながら待ち、今のこの自分のからだを神のものとして捧げ、清く保つのである。
このからだは、「聖霊の宮」であり、しかも代価を払って買い取られたのだから、自分自身のものではない。だから自分のからだをもって神の栄光を表せとパウロは言う。「自分のからだ」というが実はそうではなく、所有者は神であって、そこに住んでいるのは聖霊。
私のものであるなら、自分がこのからだを正しく管理して、清く保たなければならないが、所有者は神であり、すでに聖霊が住んでいるのだから、このからだを清くし神のものとふさわしくしてくださるのは、住んでおられる聖霊ご自身である。
「自分のからだで神の栄光を表せ」とは、自分の弱さや力を押さえ込んで生きるのではなく、むしろ聖霊に自分自身のからだをお委ねして、ダイナミックにのびのびとあなたのからだをもって神の栄光を、神の喜びを表しなさいと励ましている。
最後に、改めて三つのことを覚えたい。
からだは素晴らしいものであり、神から与えられたからだを愛したい。
肉体をとってこの世に来られ、十字架にかかられたイエスの苦しみを覚えたい。
内にいる聖霊を崇めよう。肉体的にも精神的にも、どんな状況にあるかは問題ではなく、私たちの中にどなたがいるかということ。
私たちを励まし、助け、真理を明らかにしてくださる聖霊が私たちのうちに住んでおられる。このかたを心から崇めていこう。