2011年3月11日東日本太平洋沿岸を襲った地震・津波では、釜石市も大きな被害を受けました。新生釜石教会も津波に襲われました。

教会員には当日の津波による犠牲者はいませんでしたが、関係者で4名が死亡、1名が不明のままです。7家族が仮設住宅などで避難生活となりました。

一階天井まで海水に浸かった礼拝堂・牧師館は、14年4月に修築することができました。16年には津波でひっくり返り塩水をかぶった被災ピアノを復活させることができました。

数年の間、時間感覚が麻痺(まひ)して、一年が長いのか短いのかわからない時を過ごしてきましたが、最近では11年という時間を意識するようになりました。

あの日を知らない子どもたちが成長していきます。この11年のうちに、多くの親しい人たちと地上の別れを経験しました。その中に私の父と母との別れも含まれます。新型コロナウィルスが世界中の人々の生活に影響し始めてから2年以上が経ちました。災害があろうがなかろうが、否応なく時間は過ぎていきます。

災害に遭ったり、日常生活を奪われると、人は「早く元通りに」と言います。私には当初からそうは思えませんでした。一つには、津波が来たその晩、真っ暗闇な避難先で祈ったこと。その祈りの中でキリストが私に触れてくださいました。

また、津波が押し寄せてから二度目の日曜日3月20日、何も片付かない教会に教会員が集ったことに励まされました。「片付く前の教会でなんとしても礼拝せねばならん」と言って、長靴を履いて礼拝に来られた高齢の信徒もいます。

写真のように向かいの家には車が突き刺さったまま、街のがれきの撤去などまだ始まってもいません。教会の中もヘドロが散乱している状態でした。玄関前のスペースを少しだけ片付けて、そこで主日礼拝をしました。

「打ちひしがれたこの街に主がおられて、私たちに愛を降り注いでいる」強烈な体験でした。

この後、2回ほど野外礼拝が続きました。支援物資を求めて教会に足を運ぶ人が大勢いました。私はこのまま壁のない教会、開かれた教会もいいなと思いましたが、実際に運営していくのは大変でした。

牧師家族が避難所暮らし、仮設住宅暮らしを続けながら、建物修築、被災者支援、そして通常の教会活動を続けていくのには相当の無理がありました。

一部の方に、「元通りの再建をしないなら金を出さないと教団・教区が言った」といううわさが流れていますが、それは取材をしてくれた方の勘違いです。

私が「元通り」に抵抗したのは事実ですが、具体的な再建プランを作り支援金の相談をするところまでいきませんでした。オーバーワークから鬱症状に陥り半年間休職しました。その間に建物の再建は、代務の牧師と教会員で力を合わせて契約までこぎつけてくれました。

復職してからも、具体的な支援活動は再開しませんでした。被災地にある教会が支援活動をしないのはあり得ないと悩んだこともありますが、現実には人を支援できるだけのパワーはありませんでした。

 

2021年クリスマス礼拝

震災から10年を迎えた昨年から、礼拝後に月に一度「防災対策検証委員会」として10年前の振り返りと防災対策について、教会員同士話し合う時間を取るようになりました。

一番の感謝は、この地に教会があり続けていることです。震災後、三陸沿岸に新しくできた教会もあります。

カトリック教会には釜石出身の神父が帰郷して最後の宣教地として仕えておられます。お互いに交流しながら励まし合い、それぞれの仕方でこの世に関わりを持ち続けています。

何ができても良いしできなくても良い。主が出会わせてくれた目の前の人と一緒に神の国を作ることの大切さを思わされる日々です。