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1950~60年代ハリウッド黄金期を代表する女優で“スクリーンの妖精”、ファッション界の永遠のアイコンといわれ、没後29年経つ今も愛され続けているオードリー・ヘプバーン(1929年5月4日~’93年1月20日)。彼女の出自から女優として成長していくサクセスストーリをとおして彼女自身が到達した人生観が解き明かされているヒューマンドキュメンタリー。映画女優としての高い評価と名声にとどまらず、晩年にはユニセフ(国際連合児童基金)親善大使の活動に邁進し「デザイナーズジーンズをはいたマザー・テレサ」と称され、マザー・テレサからも「同志」と呼ばれた。彼女の人生を語る数々のことばは、現代の人々に勇気と励ましのメッセージとしても力強い。

戦火を通って練られた強さスクリーン
の妖精からファッションのアイコンへ

作家コレットに見いだされてブロードウェイでミュージカル「ジジ」の主役に抜擢されたオードリーは、映画「ローマの休日」(’53年)でアカデミー賞主演女優賞を獲得し、次作「麗しのサブリナ」(’54年)では、ファッションセンスが響きあうユベール・ド・ジバンシィと運命的な出会いを得て「パリの恋人」(’57年)、「ティファニーで朝食を」(’61年)などでコンビを組みファッション界のアイコンとしてもスターダムへ駆けあがっていくオードリー。そうした脚光を浴びる以前についてオードリーはあまり語らなかったが、本作はひとりの女性としての姿を掘り起こしていく。

アイルランド系イギリス人で実業家の父とバネロス(女性で男爵)の称号を持つ母との三番目の子として生まれたが、6歳の時に両親が別居。母親はオードリーをロンドンの寄宿学校へ入学させ、
バレエ学校にも通わせる。だが、両親は9歳の時に離婚。「仕事に行く」と言って家を出たままの父親は一切連絡もなく深い喪失感に捕らわれ、彼女の生き方に大きな影響を与える。当時、母親とオランダにいたオードリーは、ナチスの侵攻に遭いレジスタンスに協力していく。無事終戦を迎えたが酷い栄養失調になり、ユニセフの食料救援活動に救われた。この経験は、晩年の彼女が飢餓に苦しむ子どもたちのための救援活動への契機へと導いていく。

自分は父親に見捨てられたという思いはオードリーの生き方に深く影響したが、夫メルがオードリーの父ジョセフが生きていることを突き止め、’58年に再会を果たす。オードリーはあまり歓迎された様子でもないことに悲しみを抱くが、再会以後は父親への経済的支援を続けた。
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愛を求め、家庭での幸せを求めた
生き方から愛を与える喜びへの転機

オードリーの長男ショーンはじめ孫娘や映画・ファッション関係者やスイスの自宅で親しい隣人らなど17人におよぶ人たちがオードリーの仕事・人柄・生き方についてインタビューに応じている。仕事よりも家庭と子どもたちとの関係を優先するため人気絶頂期に10年間仕事から離れて家庭に引きこもったが、2度の結婚生活は破局。その遠因に父親に捨てられたことの深い喪失感と母親との関係にも触れていく。オードリーと接した多くの人が、彼女は利他的な人だったと語る。オードリー自身、自分が女優として有名になれたことは、ユニセフの活動で飢餓に苦しむ多くの子どもたちへの食料や医療援助に尽力する使命のためだったという。

アンネ・フランクと同じ年に生まれ、ナチスの侵攻から地下に身を隠し栄養失調に苦しんだ経験。人間が引き起こす“戦争”に激しい怒りを抱いていたが、「戦争によって、逆境に負けない強靭さが身につきました。不幸な体験は私の人生に積極性を与えてくれました」と、悲惨な中で苦しんでいる人たちへの行動こそ、暴力に負けない愛であることを教えてくれる。その芯に強さが彼女の失われることのなかった気品を醸し出していたのかもしれない。 【遠山清一】

監督:ヘレナ・コーン 2020年/100分/イギリス/白黒・カラー/映倫:G/ドキュメンタリー/原題:Audrey 配給:STAR CHANNEL MOVIES 2022年5月6日[金]よりTOHOシネマズ シャンテ、Bunkamuraル・シネマほか全国ロードショー。
公式サイト https://audrey-cinema.com
公式Twitter https://twitter.com/audrey_cinema