社会の変化と広がる気づき

同性カップルに対し、結婚に相当する関係と認める証明書を発行することなどを定めた「パートナーシップ条例」を東京・渋谷区が全国の自治体に先駆けて創設したのは2015年4月。それと前後し、日本のマスメディアでも性的少数者(セクシュアルマイノリティ)を取り巻く問題が積極的に取り上げられるようになり、それまで「オネエ」などの言葉である種の「特殊な人たち」といったイメージで語られることが多かった性的少数者が、決して少なくない割合で社会に存在すること、社会の無理解の中で長らく困難に直面し、それゆえ多くがその事実を秘匿せざるを得ない状況にあること、また性の多様性などが広く知られるようになった。同時に、性的少数者に対する差別や偏見を解消しようという声が当事者・非当事者にかかわらず高まり、行政や企業による具体的取り組みも模索されるようになってきている。
こうした動きの中で、それまで性的少数者に対しては「同性愛」=「罪」ないし「癒やされるべき病」といった捉え方が多かったキリスト教界でも、新しい気づきのもと、そうした捉え方を見直す動きが少しずつ出始めている。依然様々な意見はあるが、少なくとも性的少数者と教会について議論されるようになったこと自体、大きな変化といえるだろう。
本紙では今後複数回にわたって性的少数者について特集する。第1回は、まず当事者の声を聞いてみよう。そこからは、自らを社会や教会に受け入れられない存在と見なして葛藤し、苦しんできた当事者の姿が浮かび上がってくる。教会は、それらの苦しみを聖書信仰に照らしてどのように捉えていけばよいのか。今後共に考える機会としたい。

「うちの教会にはいないので」

由希さん(仮名)「私はクリスチャンですが教会を探していて、そちらの礼拝に参加してもよいでしょうか?」
牧師「当教会はどなたでも歓迎しています。どうぞお越しください」
由希さん「実は私はレズビアンで、そのことは自分でも受け入れています。たとえば、私がパートナーと一緒に礼拝に伺うとすれば、それは可能ですか?」
牧師「そうでしたか、うーん…当教会は高齢の方が多くて、きっと性的少数者のことは理解できないので、かえってそちらを傷つけてしまうかもしれません…。うちには当事者の方はいらっしゃらないので…」
これは、セクシュアルマイノリティの由希さん(4、5面に詳細)が、ある教会に電話をした際のやり取りだ。しばらく話したところ、牧師は海外赴任中に性的少数者のクリスチャンに会ったことがあり、彼らは自分のセクシュアリティに悩んで「変えられたい」と願っていた、ということだった。「前向きに」パートナーと一緒に教会を訪ねるクリスチャンの性的少数者など、「そんな人、いるんですか」と驚かれたという。「同性愛は罪だと思って悩んでいるならともかく、〝喜んで〟生きている性的少数者のクリスチャンに対しては、教会としてはどうアプローチしたらいいかわからないんだな、と感じました」と由希さんは振り返る。「ご存じないだけで、そちらの教会にも性的少数者の方はいるかもしれません」と伝えて通話を終えた。
由希さんの話からは、「うちの教会には当事者はいない」「同性愛は罪だから、彼らも自身のセクシュアリティに悩んでいるはず」という、教会の典型的な先入観の一例を見ることができる。そしてその中で、実のところ多くの当事者が自分のセクシュアリティを悲観したり、自身の存在を〝聖書的に〟受け止めきれなかったりと、苦しんできた事実がある。

クリスチャン新聞web版掲載記事)