教会の「敷居の高さ」が取り沙汰されるようになって久しい。しかし「親しみやすい」教会は、中に入れずにいる人を見つめ、思い遣ることから始まるはずだ。クリスチャン新聞新連載第3弾は、社会福祉を専門とする木原活信氏による「共感共苦(コンパッション)―福祉の視点から」。私たちに見えていないもの、見てこなかったものがないか、考えたい。

 

他者の苦しみを共に苦しむ

木原 活信 同志社大学社会学部教授

先日、ある方が私のところに相談のために訪ねてきた。20代前半のAさん。壮絶な生涯を涙ながらに語っておられた。幼い時に両親が離婚し、父子家庭で育ったが、高校生のとき、父が精神障害を患い自殺。中学から実質的に家計を支えてきていたため、「夜の仕事」もして今に至ったという。晩御飯に冷たい薄い味噌汁だけを一人ですするだけのことも多かったとか。貧苦を舐(な)めた生活を涙ながら語っておられた。そして、Aさんは「直感的に聖書になんか答えがありそうで、教会に行きたくなったけど、私のような汚れた人って教会の門なんてくぐれるはずがない」と真剣に言う。私がそれをどんなに否定しても、「でも…」と躊躇(ちゅうちょ)されていた。
牧師ではなく、社会福祉を専門とする私の所には、むしろ、教会に行けなくなった人、結果的に「追い出された」人、教会に行きたくてもいけない求道者、など多くの方々が相談してくる。一方で、特別伝道集会など各地の教会では、伝道熱心に教会へ「どなた様もお気軽にお越しください!」と教会の門には来会者への熱心な案内がなされている。我が家にも時に、教会の案内物などが入っていることも珍しくない。しかし、多くの教会からは、伝道集会を大々的にやったけど、求道者は数えるほど、いや誰もいなくて残念だったという声も少なくない。なんというミスマッチ。この最大の要因は何であろうか。それは一つには他者(求道者)への共感の問題ではないだろうか。
オックスフォード大学オズボーン教授によれば、人工知能(AI)が発達して、今後10~20年で47%の今ある仕事がAIに取って代わられ、現存する半数近くの職種が消えるという。一方で消えない仕事として、芸術家のほかに、社会福祉専門職であるソーシャルワーカーがあげられていた。芸術家の属人的創造的アート性はAIでは代替できないのは当然であろうが、「共感のプロ」とされるソーシャルワーカーの場合は、AIには共感が不可能だから代替はできないということなのであろう。この共感という感覚が、現代で失われかけているものといえるが、教会やクリスチャンは果たして他者への苦しみに向き合い、本当の意味で共感できているのであろうか。

イエスの行動の起点にあるもの

実は、イエスの行動原理の源には、他者の痛み、苦しみへの共感、というものがあったように思う。それは単に「共感」という平易な言葉よりは、「共感共苦」(コンパッション)と言うべきであろう。福音書を見る限り、重い皮膚病の人、息子を失った寡婦、飢えた群衆に対してイエスの行動の起点にはいつもこの共感共苦があった。「かわいそうに思った」「深い憐れみ」などと訳されているが、それは上から目線の同情や可哀そうというものではなく、ギリシャ語原文では「スプランクニゾマイ」(σπλαγχνίζομαι)、直訳すれば「腸がちぎれるように激情する」であり、人間存在の根底を揺るがすような身体感覚である。放蕩息子の父親、良きサマリア人にも、共感共苦がその行動を起こさせる原動力になっている。そして、不思議にも共感共苦のあとに、癒やしなどの奇跡が起きている。聖書の中の奇跡は、超能力や、教理、教義から生じたというより、この共感共苦が起点になっているようである。
このような共感共苦について、教会、牧師、そしてクリスチャン一人一人はどのように捉えたらいいのだろうか。この連載では、私の所に訪ねてきた多くの人たち、あるいはSNSなどで連絡してきた「教会難民」とでも言える方々の生々しい実際の声々を代弁したい。これらを通して、現代社会の闇、苦悩などの「どん底」から捉え直し、「共感共苦」について取り上げていくことにしたい。

 

きはら かつのぶ:同志社大学社会学部教授。博士(社会福祉学)。専門領域は、福祉思想史・福祉哲学、ソーシャルワーク論。日本キリスト教社会福祉学会会長。日本学術会議連携会員。著書に、『「弱さ」の向こうにあるもの』(いのちのことば社、2015)など。京都・西京極キリスト集会所属。