今年、沖縄の施政権が米国から日本国に「返還」されてから50年の節目にあたるため、5月15日に「沖縄復帰50周年記念式典」が、沖縄と東京の2会場で開催されました。この状況に違和感ないし、異論を持つ者は少なくありません。
そもそも「復帰」という言葉を使うのは正しいのかと戸惑いを覚えます。「復帰」という言葉の前に何を当てはめるかは様々あって、「祖国復帰」「日本復帰」「本土復帰」「沖縄復帰」と言葉が並びますが、はてさて何が正しいのでしょうか?
沖縄は琉球国最後の時代の1879年、日本政府は琉球国を自国の領土にするため、抵抗し続ける琉球を「琉球処分」と位置づけ、武装警官160人余、熊本鎮台兵約400人を伴い武力で強制併合することにより沖縄県を誕生させました。その後、日本政府は沖縄を徹底して皇民化教育、日本語教育を行い、言葉、文化までも奪う中で、太平洋戦争に突入し、沖縄が日本の「盾」「捨て石」としての戦場となり、3か月余りの持久戦に持ち込まれ、民間人を多く含む二十数万人が戦争の犠牲者となりました。
その後、日本が敗戦し、連合国軍の占領下に置かれる中、日本国は主権を回復するために沖縄を米国に売り渡すなどして、サンフランシスコ講和条約を締結させました。1952年4月28日、条約が公布された日を沖縄では「屈辱の日」と今でも呼び続けています。そのような日本国になぜ沖縄は自ら「復帰」という言葉を用いて、「再併合」へと向かうのでしょうか。戦後、沖縄では「帰属問題」として日本復帰か、独立か、あるいは国際連合の信託統治下かなどと議論が交わされる中で、日本への復帰運動は、次第に多数派を占めるようになり、60年以降には「祖国復帰運動」として沖縄全島の機運となり、「米軍基地の即時無条件全面返還、核抜き、本土並み」を復帰運動の要求として掲げて邁進(まいしん)しました。その要求からわかるように、沖縄がいかに軍事基地化され、人権がないがしろにされ、平和を求めざるを得ない島であるかが見えてきます。沖縄の「復帰」運動は、戦前の大日本帝国に復帰するということではなく、戦後新たに作られた日本国憲法の基にある日本に「合同」するということであろうと認識しています。核も基地もない平和な沖縄を、自己決定権として選び取ったということです。
しかし、72年5月15日の復帰記念式典で佐藤栄作首相は、「戦争によって失われた領土を平和のうちに外交交渉で回復したのは史上まれなこと」だと語り、沖縄側が掲げた「即時無条件全面返還、核抜き、本土並み」を無視するように基地はそのまま残り、核持ち込みが密約で合意され、何をもって本土並みというのか、欺瞞(ぎまん)に満ちた「復帰」と言わざるを得ません。結局佐藤首相の思惑は、自国の領土を取り戻す「再併合」を成したのであり、その領土は再び日本の「盾」「捨て石」として、米軍基地を必要としたのです。その証しが、「復帰」50年を迎える今なお、沖縄に新たな新基地建設が強行に推し進められ、琉球弧の島々に自衛隊のミサイル基地などが配備されています。「力には力」という短絡的な思考がまかり通ってしまう状況がありますが、その思考の下にどれだけの苦しみ、悲しみ、差別という人権軽視、犠牲があるかを見逃してはいけません。
「復帰」50年の問いかけは、当然沖縄だけではなく、日本への問いかけとして受け止めて行くべきです。ロシアのウクライナ侵攻は、沖縄の基地負担を正当化する議論へとさらに強められていますが、しかし「力には力」という歴史からは、まことの平和はつくり出されることは無いことを私たちは知っているはずです。