一人ひとりに合わせた授業を展開(上)。多様な障がいを持つ児童とも、触れ合いを大事にしてかかわる

 

横浜市元町商店街から一山こえたJR山手駅を降りると,静かな住宅街が広がる。この一角の高台に、日本で唯一の私立盲学校、横浜訓盲学院がある。訪問日は猛暑だったが、丘の上の学院敷地は広々とし、爽やかな風が吹いていた。

幼小グループの朝の会をのぞくと、ある子は走り回って、人懐こく話しかけ、ある子は反応は少なく、先生に抱きかかえられていた。音楽に合わせてタッチしたり、くすぐったり、など触れ合いが多い。より高学年のクラスでは、点字タイプライターを打ち込んだり、計算したり、一人ひとりに先生が横について指導していた。少人数の家庭的な雰囲気がある。

学年制はとらず、幼稚部から小学部低学年の年代の幼小グループ、小学部高学年から中学部までの小中グループ、高等部・高等部専攻科生活科グループに分かれて活動をする。聴覚、知的、肢体、病弱など様々な障がいをあわせ持った幼児・児童・生徒を受け入れていることも特徴だ。複数の教師が連携してかかわり状況を報告し、アドバイスしあうチームティーチング体制をとっている。

普通部の生徒は卒業後、グループホームや入所施設などに入居し、作業所に通うなどが多い。高等部理療科では、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師の職業教育を行う。一方重複障がいを受け入れる場所は限られる。同学院では重複障がいを持つ生徒が高校卒業後に、家庭・社会生活を豊かにするため、高等部専攻科生活科を設けている。

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1889年、アメリカ人宣教師G・F・ドレーパーの母、C・P・ドレーパーが、路上で視覚障がい者と出会ったことをきっかけに同学院の前身となる「盲人福音会」が設立された。当初無料で生徒を受け入れたが、何度も経営の危機に直面した。関東大震災後の不況時には、公立化への誘いもあったが、当時の今村幾太学院長は、「ドレーパー先生がまかれた『大切な心』を守りたい」と私立を堅持した。今も朝の会では暗唱聖句やお祈り、毎週一回の合同礼拝、理療科での聖書の授業が続く。

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他人との比較ではなく、一人ひとりの賜物生かす

 

今年4月に学院長に就任した笹野信治さんは、横浜市内の教会で8年間牧会していた日本基督教団の牧師。学院長就任以前から同学院では聖書の授業や礼拝説教などを週一回担当してきた。実は牧師になる以前は盲学校、ろう学校、知的障がい、病弱、養護学校など、多様な特別支援教育に35年従事していた。

当初牧会を辞すことにためらいがあったが、同学院にある、「礎」の銘文が後押しになった。「愛の関係を全うせる家を組織し…」という植村正久の説教「識らざる神」の一文を今村が引用し、「訓盲院家(くんもういんけ)の元理」と表明した。「植村先生が教会について語ったことを、今村先生が本学院にも当てはめた。ここで愛の家族をつくれたらと思った。特別支援教育、牧会の経験は、ここに来るまでの準備だったのではと神様のみ旨を受け止めました」

パラリンピックや多様性の理解が進む中で、障がい者への社会の視線が変わってきたが、まだまだ差別偏見などの「壁」を感じている。「学校から働きかける必要がある。以前の勤務校だったが、交流会など開くとだんだんと町の人が声をかけてくれるようになったこともあった。障がい者について知るということは大事。知らないと何もできないが、知っていると積極的に援助できます」

さらに「神様から見た人間」という視点も重視する。「以前の勤務校の生徒でパラリンピックで活躍した子もいる。素晴らしいことだが、皆がそのような活躍をできるわけではない。神様は人に様々なタラントを与えた。多い少ないではなく、それを用いていけることが大事。ある車いすの子は、その場でぐるぐる回るのが精いっぱいだったが、学院に来て、一メートルくらいの範囲を移動できるようになった。他の子との比較が問題ではない。これからも、一人ひとりときめ細やかに接し、その子の成長を願い、そのお手伝いできる教育をしていきたいと思います」【高橋良知】

クリスチャン新聞web版掲載記事)