【8・15特集】好戦的と見える旧約聖書に 「平和の福音」を発見する 『旧約聖書の平和論 神は暴力・戦争を肯定するのか』

 

 

 聖書は「平和の福音」と言われます。この言葉は新約聖書の「使徒の働き」10章36節や「エペソ人への手紙」6章15節に出てきますが、新 約聖書全体が神との平和、隣人との平和を証ししていると言えるでしょう。

 ところが旧約聖書には、たくさんの戦争の記事や、中には神ご自身が敵を全滅せよと命じていると読める箇所があり、聖書が本当に平和の教えなのかとまどうことがあります。

 平和主義に立つメノナイトの旧約学者、南野浩則氏(福音聖書神学校教務)が書き下ろした新刊『旧約聖書の平和論』は、そんな疑問に答えてくれます。著者の「あとがき」から一部をさわり読みしてみましょう。

…私が属しているメノナイト派にとって、イエスの弟子として生きるということが最も大切なことです。そこから二つの特徴が導き出されていきました。

一つは、非暴力に基づく平和主義という生き方です。メノナイト派の人々はイエスの生涯・死・復活に平和を見出し、その生き方に従っていこうとしてきました。

もう一つは、新約中心という考え方です。キリスト者が従うべきモデルとしてのイエスは、具体的には新約聖書に記されているという意味で、自ずと新約聖書により注意を払うようになりました。そのような伝統の中で、無意識ではありますでしょうが、メノナイト派は旧約聖書から距離を感じていたように思います。特に、旧約聖書に戦争を前向きに記述している箇所が少なくないことは、この距離感の原因の一つになりました。

しかし、旧約聖書も新約聖書と同じキリスト教会にとっては「神のことば」であり、欠かすことのできない書物です。私はメノナイト派という自覚の中、旧約聖書に興味を抱いて、自分なりに学んできました。そのような環境に身を置いた私の課題は、イエスの平和という観点から旧約聖書を読み直してみることでした。それは、旧約聖書にイエスの歴史的な啓示を見出すということではなく、平和と正義に基づくイエスの福音に共鳴・共振する考え方を旧約聖書に見出そうとする作業であり、その作業の試みが本書になります。

メノナイト派にとって平和は福音の一部ではなく、福音そのものです。神の価値観をすべて平和ということばに結び付けるのに無理があると考える読者もおられるとは思いますが、福音とは神が人間に与える最も素晴らしい福祉であるとするならば、福音の本質に平和を求めることは決して否定されるべきものではないと考えます。

周りの世界を見てみましょう。社会の変化が速くなり、その構造は変わりゆきます。そこには平和を目指すという大義名分がつねにあります。しかし、戦争や暴力は収まるどころか、ますます激しくなっていきます。経済格差の広がりは限りを知りません。大多数の人々が貧困に苦しむ現実があります。人間の自然への働きかけが生物全体を生存の危機へと陥れています。

おりしもロシアがウクライナに軍事侵攻し、世界中が戦争の危機を感じ、平和について考えさせられています。この国際紛争が軍事衝突に至った原因はいろいろとあるのでしょうが、平和による外交が失敗したことは確かです。流血と破壊は人間の尊厳を脅かし、聖書が語る神の支配を蔑(ないがし)ろにするものです。私たちは平和の回復を祈りつつ、戦争と平和の問題を自分たちのこととして真面目に考えてみたいと思うのです。

このような時代にあって、教会やキリスト者がどのような考えを持ち、どのような行動をとるべきなのか、聖書はその指針の重要な一端を担っています。聖書から平和を考えることは教会堂に閉じこもることではありません。私たちを押し出していくものです。そのような平和の福音を聖書から理解していただきたく思います…

 

『旧約聖書の平和論 神は暴力・戦争を肯定するのか』南野浩則著、いのちのことば社、2,200円税込、四六版