【8・15特集】他者にだけ変革求める 戦中と同じ体質ではないか 『BC級戦犯にされたキリスト者 中田善秋と宣撫工作』

 

 

1945年2月24日、戦時下のフィリピンで「サンパブロ事件」とよばれる事件が発生しました。日本軍が町の住民たちを教会に集めて、その内の約700人を殺害した集団虐殺事件です。その事件への関与を問われ、BC級裁判にて戦犯とされ、戦後の約10年間をフィリピンの収容所とスガモプリズンで過ごした一人のキリスト者がいました。中田善秋という人物です。

実は中田善秋はその時、上官の理不尽な命令に抗して10人以上の住民たちを救出しました。彼は住民の殺害には全く関与しておらず、裁判そのものも極めて不当なものでした。しかし中田は戦後、プリズンの中で十字架のイエス・キリストとの深い出会いを体験しつつ、赦された者として自らの罪と向き合い続けます。

そして静かに問いかけるのでした。戦争という大きな構造悪の中にあって、日本人としてキリスト者として、その場に居合わせたこと自体が罪だったのではないか。自分が親交を結んだフィリピンの人々が、家族を殺され、生活の基盤を破壊され、何世代にも及ぶダメージを受けたことに対して、自分はどう責任を果たしたらよいのか。
戦後77年の年月を経て、今回この著作によって中田善秋という人物に光が当てられることになりました。この著作が伝えているのは戦争の悲惨さだけではありません。

当時、神学生だった中田善秋は神学校の推薦と日本基督教団の了解のもと、日本軍の宗教宣撫(せんぶ)班の一員としてフィリピンに派遣されました。そして福音宣教の名の下に「宣撫工作」を行いました。当時の教会は、国家の命に従順で戦争に協力している自らを問うことなく、フィリピンの教会にだけ変わることを要求していたのです。

今に生きる私たちの宣教も、自らを変革することに疎く、人に変わることだけを要求する「宣撫工作」になっていないか、戦中の教会と同じ体質が私たちにも引き継がれているのではないかと、この本は私たちに鋭く問いかけてきます。
評・若井和生=単立・飯能キリスト聖園教会牧師

 

『BC級戦犯にされたキリスト者 中田善秋と宣撫工作』小塩海平著、いのちのことば社、1100円税込、四六版