新型コロナ感染拡大から2年が過ぎた。多くの学生にとって、学校生活の大半をコロナ禍の「新常態」で過ごしてきたことになる。その影響下の学生を「コロナ世代」と呼ぶこともある。対面授業、行事、交流、活動の機会が縮小された現実があるが、今後どのような影響を与えるか。若い世代にどのようなフォローが必要か。さらにこの状況下で見えてきた新たな可能性、希望とは。

「一人も残さず活かすために」 恵泉女学園学園長 廣瀨薫

闇の中でこそ光を放つ 「聖書」を礎とする幸い 金城学院高等学校  宗教主事 沖崎 学

つらいことばかりではない 「あなたと共にいる神」の希望 大阪女学院中学校・高等学校 副校長 山﨑哲嗣

人との接触、サポート減ったが、 新たな交流や教会を考える機会に 大阪聖書学院 学院長 岸本大樹

失うという経験を通して見出す光  新潟聖書学院 院長 塚田 献

闇の中でこそ光を放つ 「聖書」を礎とする幸い
金城学院高等学校  宗教主事 沖崎 学

 

 やることは同じ

全校、学年、クラスと、曜日によって形は違うものの、金城では毎朝礼拝を捧げている。週に1日だけ、全校がクラス礼拝を捧げる日、私は、好んでクラス礼拝に出席する。クラス礼拝では、生徒が証しや奨励をする。自分の経験や、今の自分を、聖書の言葉と照らし合わせ、クラスメイトの前で語る。学年が上がるほど、聖書と向き合い、驚くくらい自分を開示できるようになるのは、金城生の特徴。毎朝、神さまに招かれ、神さまによって選ばれた仲間と、共に守る礼拝によって与えられるものだ。それだけに、礼拝での生徒の話は、本当にササる。

2020年7月中旬。もうすぐ1学期が終わる。4、5月と、ほとんど休校だった高校生活。高3のクラスで、バトン部の生徒が礼拝を担当。「思い悩むな」の御言葉が読まれた。部活の練習もままならず、大会の見通しも立たない。中高6年間の集大成である演技を披露する場もなく、「もう、自分たちは何にもできないと思った」と語る。しかし、彼女は、「最近、それは違うと気づけた」と言う。 「私たちがやることは、先輩たちがしてくれたことと変わらない。一緒なはずだと気づけた。それは、どんなときも強くあること。後輩に寄り添うこと。今を前向きに進むことだ」。輝き放った彼女の表情と、その言葉のエモさに、涙がこぼれた。

 

 1本のホワイトライン

2021年度の秋の伝道週間は、金城制服制定100周年を覚えて、演劇部に担当してもらった。礼拝後のLHRで、「Put on…」を上演。制服制定から始まる、KINJO SAILORS STORYだ。金城の制服のスタイルは、100年間、ほとんど変わりない。ただひとつ、大きく違うのは、もともとセーラー服に3本あったホワイトラインが、現在は1本であること。実に、その1本に込められた、100年分の神さまの愛の物語がある。その物語を、実際の卒業生の証言をもとに描いた舞台が、「Put on…」なのだ。

1930年以降、戦争へと舵を切る日本。宣教師が建てたということでスパイ学校と呼ばれ、見えない圧力が金城にのしかかる。さまざまな批判を受ける中で、制服の3本のラインまで贅沢(ぜいたく)だと。そして、ラインは2本になり、1本に。それは、強いられた苦しい選択だ。

しかし、戦後、このラインを3本には戻さない。この悲しい歴史をホワイトラインに込め、平和を願うために1本のままとする。観劇した金城生のリフレクションシートには、「見えないものに目を注ぐ」との御言葉があふれた。かつて、金城からどんどん日常が奪われた時代と、自分たちの今を重ね合わせ、金城のアイデンティティーを全校で確認できた。

 

全校礼拝が捧げられる榮光館

 

 させていただく活動

2022年7月24日(日)より、1泊2日でキャラバン隊の夏の活動を行った。キャラバン隊は、年間を通して、教会や幼稚園などを訪ね、人形劇やレクリエーションの奉仕をする。人形も手作り、劇のシナリオも生徒の自作。すべての活動は全校生徒の献金でまかなわれる。今年度で66年目となる、歴史あるユニークな活動。今年は、3年ぶりに夏の活動ができると見込んで、春から準備をしてきた。2週間前からの検温、出発当日の抗原検査、万全の対策で臨んだ。しかし、訪問先の二つの幼稚園から直前にお断りの電話が入る。

それでも、二つの教会が受け入れてくださり、奉仕の機会が与えられた。ひとつの教会は、牧師と、帰省していた牧師の娘と孫の4人の観客。約30人のキャラバン隊は、この4人に向けて、精一杯にそれぞれの役割を果たし、笑顔で奉仕させていただいた。「いつも喜んでいなさい」。笑顔は作るものではなく、感謝し、喜ぶこころが笑顔を生むのだと金城生から学んだ。

 

 闇の中でこそ輝く光

世界を吞み込んだパンデミック、コロナ感染に、金城もたくさんのものが奪われた。しかし、奪われないものもあった。奪われないどころか、「これこそ必要だ」と、はっきり見えたものもあった。

金城にとって、それは聖書だ。聖書こそ本物だということが明らかにされた。それは、奪われず、変わらなかった。ウイルスがいてもいなくても、日本でも、世界でも通用しなければ、本物ではない。その本物である聖書を礎とする幸いを知ることができたのが、金城におけるコロナ世代だ。

聖書が礎になかったなら、マスコミが散々煽(あお)ったように、突然に襲われた大嵐のために、禁止、中止、変更、縮小を余儀なくされた生徒の前で、「悲しい青春時代になってしまった。かわいそうだが今は我慢」と諦めと絶望の言葉以外に何も語れなかったかもしれない。想像するだけで、ゾッとする。

コロナ前と、コロナの今と違うことを語っていたら、その言葉は偽物であり、本物ではない。いや、本物であるなら、状況が悪く、闇が深くなればなるほど光を放つ。そう語ってきたし、今も、そう語りうる。今、ロシアによるウクライナ侵攻の映像を見る金城生にも、「いつの時代にも、かならず意味があり、価値があること」を語ってゆきたい。

2022年09月18日号別刷掲載記事)