木原 活信 同志社大学社会学部教授

キリスト教を求道しておられたある方から次のような鋭い質問があった。「キリスト教では自殺は罪なのでしょうか? 自殺した者には残念ながら救いはないと教会で牧師に言われてしまいました。実は、私の妻は自殺しました。だからそれを悔いて生きるよりも、あなたはそうならないように希望がもてるように聖書を読んで、キリストを信じて永遠の命を得てください、と。この牧師の言われていることはごもっともなのかもしれないが、でも私にはこの話はあまりにも残酷で、それ以来、聖書にも、教会にも、縁がなくなりました。むしろ拒絶された感覚です。先生はどう思われますか」

キリスト教と自殺、そこに教義として踏み込むことはある意味タブーとすら思える雰囲気が教会にはある。歴史的にみると、近代以前の西洋では、自殺を最も重い罪と断じていた。したがって、後でその死が自殺であると判明すると、教会の墓を堀り返してまで、その遺骨を墓から追放していたという史実もある。それほど、神の前に自殺が重たい罪であると言わんばかりである。研究者によると、当時の西洋社会では、これにより自殺を断罪し、それが忌むべきものであることを社会のなかで浸透させることによって、自殺の抑止力としての一定の効果があったのも事実であるという。


教義を一方的に押し付ける前に

ところで、自殺は、冷徹に教義だけで片づけて終わらせるべきものではない。そこには深く、重く、そして一人の人の人生とその家族の根幹を揺るがすような問いがあるはずなのである。私自身も親しい人を自殺で亡くしているゆえに、当事者だからこそわかる感覚というものがある。つまり、それほど、簡単には答えられない問いなのである。
かくいう私自身も、かつて共同研究の学会発表で、イスカリオテのユダの自殺を例にしながら、それが「自己完結した死」であったというような報告をしたことがあった、、、、、

クリスチャン新聞2022年8月14日号掲載記事)