名古屋市圏内のキリスト教会・団体・学校などのゆるやかなネットワーク、「名古屋キリスト教議会」(NCC)は昨年創立70周年を迎えた。今年『70周年記念誌』を発行した。同協議会議長の鈴木直哉さん(バプ連盟・東山キリスト教会牧師)にNCCの現在とこれから、さらに地域宣教の課題などについて話を聞いた。【高橋良知】

 

災害とともに結束を強めた
名古屋の教会の「窓口」

 

学生時代は名古屋市にあるカトリック系の南山大学に通い、日本バプテスト連盟の東山キリスト教会で受浸、神学校は日本基督教団立の東京神学大学、と超教派的なかかわりをもつ環境に身を置いてきた。福岡県での牧会をへて、2009年から同教会で牧会する。NCCとのかかわりは14年に役員となってからだ。18年から同協議会議長を務める。

NCCは1951年、スタンレー・ジョーンズ博士の講演会をきっかけに発足。結束を強めたのは、59年の伊勢湾台風の救援活動だった。支援活動によって、地域に社会福祉法人名古屋キリスト教社会館を生み出した。その後も地域の教会、キリスト教団体・学校などとの交流のほか、美浜町の聖書和訳頌徳碑記念式典行事への協力や、様々な講演会の受け入れなど、地域のキリスト教会の窓口となってきた。

 

2011年の東日本大震災以降は、東北ヘルプを通して災害支援に協力してきた。17年、宗教改革500年記念大会(日本福音ルーテル教会東海教区との共催)では、司教を来賓に迎えるなど、カトリック教会との接点も生まれた。宗教者9条の会や超宗派の3・11犠牲者追悼の祈りにも協力する。18年には東海福音フェローシップや日本基督教団愛知西地区、ハーベストフェローシップなど、プロテスタント諸派の協力で、南海地震などに備えた「東海キリスト者災害ネット」を立ち上げた。

時代性への応答と
つなぐ役割、次代へ

 

鈴木さんが課題に感じたことは、在任中19年に起きた、あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」展示中止問題、21年名古屋入管でのウィシュマ・サンダマリさん死亡事件などについて、地域のキリスト教会として応答ができなかったことだ。

 

この反省も受けて、今年3月には、ロシアによるウクライナ侵攻を憂い、「ウクライナの平和のための祈り」をホームページに掲載。7月には、安倍晋三元首相「国葬」決定の撤回要請を内閣総理大臣宛に提出するなどしてきた。「時代性に応答したい。70年間の歴史を振り返ったとき、協議会に流れてきた精神とは、ゆるやかなネットワークとともに、聖書に基づきながら『いのち』にかかわる危機に寄り添ってきたことだった。今回その歴史を残していけたことは良かった。今後も草の根の市民団体とも対話の機会をもてればと願います」

もう一つの課題は「なり手不足」。「私自身、議長となって二期四年が過ぎたが、もう一年延長する。やる気があっても、なかなか忙しい人が多い。人材を送れない教派も出ている。牧師が兼牧、兼職せざるえないという各教派の事情もうかがえる。キリスト教団体、学校の職員もクリスチャンの数は少ない。むしろ、キリスト教精神を理解して、社会課題に取り組む人と関係性が広がることが重要になる。そのときNCCのゆるやかさが生かされる。つなぐ役割として利用してもらいたい。メンバーには自由さ、柔軟さがある。今、男性、女性、多様な性の人々が役員に加わり対話ができるのが協議会の豊かさ、財産だと思う。一色になるのではなく、キリストにあって一つが大事だと思います」

 

 

『70周年記念誌』
HP:nagoyakyogikai.wixsite.com/website/

 

地域性についても聞いた。「東京と大阪の間にある名古屋、東海地域は『通過点』になりがち。秀吉、家康などを輩出した地域だが、キリスト教迫害の歴史もある。産業や交通の要衝だが、他の大都市と比べると、割合的にキリスト教会は少ない。ただ戦後の教会の歴史を見ると、キリシタン殉教があった場所に教会ができていることも多い。『石が叫ぶ』(ルカ19・40参照)ということを思わされます」

今後の教会の在り方について、こう話す。「『信徒が少なく、牧師の謝儀が出せない』という不安がある一方、『本当に困っている人のよりどころになる』ことも求められる。キリスト教会の長い歴史の中で、迫害、貧しさの中で、パンを分け合う時期は長かった。中部のある教会では、信徒数低下で教会閉鎖の淵(ふち)に立ったが信徒の意志で継続し、近隣の社会福祉協議会と協力し、『だれでも食堂夕焼けこやけ』などの働きをしている。社会奉仕、礼拝、研修場所を組み合わせた拠点として再生するアイデアもある。統計データや教会成長の様々な理論があるが、理屈通りにはいかない。教会一つ一つが人格をもっていて、それぞれの在り方があると思います」

東山キリスト教会ホームページでは「『都会のオアシス』『町の隠れ家』的な霊的いやしの雰囲気のある教会、誰が来ても居心地のよい教会」を目ざすと書かれる。「茨木のり子が書いた詩『お休みどころ』のイメージがいいなと思う。峠の上にあり、静かにお茶が置かれた場所。ゆるやかな時間が流れる。強制的に信じさせるのではなく、神さまが、生きて働かれて、それに気づいてもらえる。そういう場に教会がなればと願っています」

クリスチャン新聞web版掲載記事)