Photo by Amin Hasani

 

 前回(8月7日号)はテクノロジーと神の物語についてノアの箱舟とイエスの十字架の連続性に注目した。ジョン・ダイアー氏(ダラス神学校学部長兼教授)の講演録の続き。(記事原題:Where Does Technology Fit in the Story of God?A Theology of Technology for Coders and Artists. 配信元https://medium.com/faithtech )

 

前回は テクノロジーは「道具」ではなく「物語」の一部だ IT宣教の潮流・考察⑦
2022年08月07日号

 

テクノロジーは良いものか、悪いものか、それとも、どちらでもないのか

ここではテクノロジーを単なる「真理の管」「真理を通すもの」以上だと捉えることが重要だ。テクノロジーはそれ自体が真理であり、真理の現れなのだ。

どういうことかと言うと、ジムに行けば人は自分の体を鍛える方法に合わせてテクノロジーを選択する。腕を鍛えたい、脚を鍛えたいなど、それによって様々な器具から選ぶ。このような状況で、果たしてテクノロジーは良いものか、悪いものか、それともどちらでもないのかといった疑問を考えてみる。すると人は、「重要なのは、器具をどう使うかであり、良いも悪いもない」と答えるだろう。

ジムで器具を選ぶとき、それをどう使えば体型が変わるかはわかっている。これは他のあらゆる道具でも同じことが言える。人はシャベルを良くも悪くもないものだと考えている。

その道具を良いことに使うことも出来れば、悪いことに使うことも出来る。教会や神の国の建設に使うこともできる。誰かを殺(あや)めたり、宝物を埋めるために使うこともできる。

しかし人が道具を使えば、その道具によって変化が生まれる。手には水ぶくれができ、それがタコに変わる。良いことに使おうが悪いことに使おうが、人の手はその道具を使ったことにより変化が伴う。

 

道具によって変化が現れる。私たちのメッセージも同じ

メディアとメッセージ

道具を使えば、必ずその道具によって変化が生まれる。メッセージを伝えるのも同じだ。伝えたいメッセージがある時、それを管に通せば、反対側から同じように出てくることを期待する。しかし実際には、何かを通すと、道具によって少し違ったものが出てくる。もし下にあるようなスライドを冒頭に見せていたら、「これから何が始まるんだ」という印象を与えたはずだ。なぜなら、このスライドには「私はパワーポイントが得意だ」と書かれているからだ。

 

PowerPoint from John Dyer

しかしこのスライドには「私はパワーポイントが苦手だ」と思える点がいくつもある。一般的に人気のないとされているフォントが使われているし、キリスト教界隈でよく使われるPapyrusのフォントも使われている上に、色使いも適切とは言えない。このように「私はパワーポイントが苦手だ」と言わんばかりのことが、世にあふれていることは皆さんご存知の通りだ。

ここで起きていることを説明すると、まず「私はパワーポイントが得意だ」というメッセージが表示されている。しかしそのスライドからは「私はパワーポイントが苦手だ」というメッセージが読み取れる。そしてこの二つが対立構造にある。これは、私たちがテクノロジーを使っているときに常に起きていることで、常に情報が交錯している。テクノロジーと聞くと、おそらくまずは身近にあるスマートフォンを思い浮かべるだろう。

 

Photo by Andrew Le

スマホを使っていれば、表示されるメッセージをよく目にするが、そこには何が書かれているだろうか。そしてそれは道徳的に見て良いものだろうか。それとも悪いものだろうか。これはクリスチャンが考えるべきことだ。また反対に、そのスマホを使っていることで、周囲にはどのようなメッセージを発信しているだろうか。

スマホを手にしている時に、もしある人があなたに話しかけようとしていたとすると、その人はスマホの背面から発せられるメッセージを受け取っていることになる。この状況で、スマホは人と話すために使われているが、人を遠ざけるためにも使われているということを考えてみてほしい。
何かを創造するときはいつでも、方法と内容を同時に考える必要がある。(つづく)

クリスチャン新聞web版掲載記事)

 

この記事は国際的なデジタル宣教ミニストリー「FaithTech」(フェイステック)が発信する記事サイトから「FaithTech日本」の協力で翻訳掲載します。