11月13日号1面:「犠牲のシステム」論に浅野氏反駁 責任転嫁でなく責任〝自覚〟 福音主義神学会西部
福音主義神学会西部部会2022年度秋期研究会議が10月31日、神戸市の関西聖書神学校で、オンライン併用で開催された。テーマは「贖罪論を新約聖書神学から考える」。主講演は近著『死と命のメタファ』(新教出版社、本紙7月3日号書評参照)で贖罪論の自説を展開した浅野淳博氏(関西学院大学神学部教授)。2回に分けて掲載する。
同書執筆の契機は、高橋哲哉氏『犠牲のシステム』によるキリスト教批判への反駁にあった。氏の言うように、他者に責任を負わせることによる利益(救い)を説く責任転嫁の教えが聖書にあるのだろうか。
私の結論は以下の3点。(1)聖書は一貫して責任転嫁でなく、むしろ責任の自覚を促す。(2)新約聖書時代のおそらく後70年代頃まで〈いけにえとイエスがメタファを介さず直結する〉という理解はなかったか、明確でなかった。(3)ヘブル書において初めて、イエスの死が神殿犠牲と直結する。
本講演の前半では、イザヤ52・13~53・12の第四のしもべと神殿犠牲との関係性を手がかりに考察する。この詩では、〈しもべ〉が〈私たち〉と〈多くの人〉を義とするよう促し、その過程で彼らの病、違反、罪を負いつつ死に至る。この物語に〈他者の罪を負って死ぬしもべ〉の姿を見出すことで、イエスの贖罪死の予型的な物語と理解されている。
〈私たち〉は〈しもべ〉の苦難を神殿犠牲のメタファを用いて表現し、犠牲と追放儀礼が一度に行われる大贖罪の日のイメージで描写する。その論理を考える必要がある。
移行主題と啓発主題の混同に注意
神殿犠牲には、二つの主題が見られる。一つは〈移行主題〉。神殿犠牲は罪の結果として生じた汚れを取り除く目的で行われる。本来なら民自身が負うべき自らの罪の責任と結果を、動物が代わりに負う。〈ある人の行為の責任と結果とが他に移行する〉という〈移行主題〉が顕著である。
しかし、この「移行主題」は人間関係では成り立たない。旧約聖書では、神の恩寵である契約の中で、イスラエルの民が自らの罪に対して責任をもつ。したがって、人身御供は禁忌される(申命12・31)。
もっとも〈他者のために苦しむ〉行為は、預言者にも見られる。彼らは民のために神に執り成し、民を神へと立ち返らせようとして迫害を受ける。その苦難を通して、民を神へと立ち返らせようと啓発するのである。預言者としての〈しもべ〉の苦難にも、この啓発の効果があった。
大贖罪の日の儀礼を説明するレビ16~17章では、牡牛・雄羊の血が宥(なだ)めの蓋に注がれるとともに、民の罪を雄山羊の上に置いて共同体の外に運搬させるアザゼルの山羊の追放儀礼が行われる。ここに神殿犠牲の〈移行主題〉が見られる。
一方、直後の18~20章では、イスラエルの民が神と隣人に対して誠実であるための敬神的・道徳的指示が記される。対になっていると読むべきだろう。つまり神殿犠牲には、民を道徳的に啓発する意図があるようだ。
旧約聖書が犠牲の相対化を教える際には、道徳が伴う必要性を説く(詩篇51・19~21、ホセア6・6)。神殿犠牲には、いつもイスラエルの民を敬神的・道徳的生き方へと促す啓発的な意図があると言えよう。これを神殿犠牲の〈啓発主題〉と呼ぼう。
イザヤ書の第四詩において〈しもべ〉の苦難が神殿犠牲のメタファによって説明されるのは、神殿犠牲の移行主題でなく、むしろ啓発主題とリンクさせているからだと思われる。〈しもべは神殿犠牲のようだ。なぜならしもべは、神殿犠牲が民を道徳的・敬神的生き方へ啓発するように、私たちを道徳的・敬神的生き方へと啓発したからだ〉という論理が見てとれる。
〈しもべ〉の預言者行為の結果として回心した〈私たち〉は、自らの以前の在り方を悔いて、〈しもべ〉の生き方に倣い、〈しもべ〉の預言者としての活動に参与した。〈私たちの行為の結果がしもべに移行したので得をした〉という責任転嫁でなく、反対の〈しもべが苦しんだのは私たちのためだったので、私たちは悔いた〉という責任の自覚が見てとれる。高橋氏が批判するような責任転嫁を教えてはいない。
第四詩で〈しもべ〉が神殿犠牲のメタファによって語られるのは、しもべの預言者としての苦難と死の啓発主題が神殿犠牲の啓発主題と対応するからだが、〈しもべ〉と神殿犠牲とが並列に置かれると、どうしても〈啓発主題〉と〈移行主題〉が混同され、〈しもべ〉の預言者としての苦難と死にも〈移行主題〉があるような錯覚を読者に与えてしまう。だが第四詩に見られるのは、旧約聖書に広く見られる預言者的行為の啓発主題だ。
原始教会は、この第四詩を用いてイエスの死の救済的意義を説明する(使徒8・32~33、Ⅱペテロ2・22)。イエスの生き様と死に様とが〈しもべ〉のそれを連想させるからだ。ならば、神殿犠牲の啓発主題と移行主題とを混同しないように気をつける必要があろう。私は、少なくともパウロに至る原始教会においては、二つの主題は区分されており、その区別が曖昧になり始めるのは、後80年代に執筆されたと考えられるヘブル書においてだと考える。
後半では、原始教会、パウロ、ヘブル書を通して、新約聖書がイエスの死をどのように理解しようとしたのかを述べる。(次号につづく) 【山口暁生】
(クリスチャン新聞web版掲載記事)