「第10回戦争に関する証言集会」で山口氏 特攻青年の死と信仰とは 「死ぬことは益」と結びつく
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山口氏は「公益財団法人特攻隊戦没者慰霊憲章会によると、太平洋戦争による特攻死は6千418人、うち航空機による特攻死は3千903人。その中に相当数のキリスト者もいたと思われる。うち2人の青年が明確な信仰を持って特攻死を受け入れ、その心情を文章に残した。その一人が京都帝大の林市造だ」と語る。
学徒出陣した林は1945年4月12日、神風特攻隊として出撃し、23歳で与論島東方の敵機動部隊に突入し戦死。3月31日、朝鮮北部の元山から母親に宛てた最後の手紙には、「私はこの頃毎日聖書をよんでいます。よんでいると、お母さんの近くに居る気がするのです。私は聖書と讃美歌を飛行機につんでつっこみます」などと書かれていた。
「姉の博子によると市造の愛唱讃美歌は322番(1931年版、現行337番)『わがいけるは、主にこそよれ、死ぬるもわが益、またさちなり』だった」ことから、「ピリピ1章21節、讃美歌322番は、独立教会「アサ会」の指導者田中遵聖から、洗礼時に『汝死ね』と告げられた市造の特攻に臨む信仰であったのでは」と推測。「ここに『軍人勅諭』『教育勅語』によって育てられた青年の生き方がある。皇国・皇道・国体などとよばれた天皇制は、まことに『いのち』を軽くした。市造の福岡高等学校の友人で一緒に受洗した湯川達典は、『彼らは「皇国の礎となるために死ぬ」と書いているが、それは戦争末期に20歳前後となった人間の、精一杯の生き方でもあったと思う。彼らの遺書が、父母や兄弟姉妹への限りない優しさに満ちているのは、そのような死=生き方しか選べなかった人間の真情であろう』と言う」
「森岡清美は『若き特攻隊員と太平洋戦争 その手記と群像』の中で、伊東一義が敗戦50年を前に記した手記『雲の果ての林市造』の最後の言葉を引用し、こう締めくくる。『特攻ということは、これほど人の心を苦しめる。あってはならない戦術である。林だけではない。陸海数千人の特攻隊員がこの世界戦史にもほとんど稀な無謀な戦に斃(たお)れた。戦後50年たっても、私はこれを許すことができない』」
「林市造は『私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です』(ピリピ1・21)の聖句を残し特攻死した。アサ会だけでなく日本の教会は、そのようにしかクリスチャン青年を育てられなかった。特攻を志願して生き残り、戦後は牧師として平和運動に尽くした大塩清之助は『教会におけるイエス・キリストの十字架と復活の福音と、学校における国家主義教育とが、わたしの中では合理的に一つに結び付いてしまったのである』と回顧する。林市造も同じではなかったか」と結んだ。【中田 朗】
(2022年12月18・25日号掲載記事)