【2・11信教の自由特集】「救済法」 悪質な手法防止には不十分
寄稿 木村庸五(日本キリスト改革派湖北台教会長老、弁護士)
旧統一協会問題と改正消費者契約法と被害者救済新法
安倍元首相の狙撃事件をきっかけに旧統一協会問題がクローズアップされ、消費者契約法の改正法と被害者救済新法(「法人等による寄附の不当な勧誘の防止等に関する法律」)が、昨年12月国会において急遽採択された。
不当な勧誘により締結した消費者契約や寄附を取消ができる場合が法律で拡充されたが、「困惑」させたことが取消できるための要件となっていたり、取消をできる場合を不安をあおった場合に限定するなど要件が厳しく、悪質な手法を十分に防止できないおそれがある。
心理操作の結果、困惑もせず不安も感じないで契約するような状態にまで追い込まれていることが少なくないことを考えると、この限定は不適切である。
また、契約することが「必要不可欠」であると勧められた場合に限って取り消しを認めているところもあり要件が過重である。さらに行為能力のない未成年者や成人でも自由意思を回復できていない状態にある場合は、自ら取消権をすぐには行使することが期待できないなど取消権行使自体にさまざまなハードルがあり、利用しやすい救済措置を整える必要がある。問題のある契約は取消可能とするのでなく無効とし、救済手続きを簡略にすべきである。
被害者救済法3条には勧誘に当たっての配慮すべき事項が義務として定められている。しかし、配慮義務違反に罰則が適用されず、勧告に従わないときも罰則の適用はなく、その旨を公表することができるとのみ定めている。
同法4条には、不当な寄附勧誘行為として六つの禁止行為(不退去、退去妨害など)を明示し、さらに5条には寄附のために個人に借金をさせたり、自宅や土地などを売らせたりすることも禁止行為として列挙している。
しかし、4条の禁止行為違反になるためには被害者が「困惑」することが要件として付加されている。しかも義務違反について罰則が適用されるのは、引き続き違反行為をするおそれが著しいと認めるときに勧告をし、さらに勧告に係る措置をとるよう命じても命令に違反したときにはじめて罰則が適用されるという不可解なほど迂遠(うえん)な規制となっている。
問題の所在
(一) さらなる法整備の必要性
人権侵害や過酷な収奪を行う反社会的な教団を規制する法律ができたことは一応評価できるが、にわか作りのため問題の抜本的な検討に欠け、規制の内容は不十分であり今後の見直しが求められる。
望まぬ信仰をたくみに強要されて苦しんでいるいわゆる宗教2世の人たちの深刻な経済的・精神的救済問題についての実効的な救済制度は作られておらず、呪縛からの離脱に時間を要する彼らの救済のために時効の壁を越えた救済の道も未だ開かれていないなど、多くの問題が残されている。
家族や地域社会など、国と個人との中間の共同体が崩れて、寄る辺のない個人が多くなっている今日、特に宗教界は、本来の宗教性を発揮して、人々がカルトに救済を求めるようにならないため、あるいはカルトから救出するため活発な働きが求められている。
(二) 宗教団体の信教の 自由と被害者の信教の自由
宗教団体による反社会的な活動に対する規制に関して、信教の自由を盾にしてこれに反対する動きもある。しかし、信教の自由は、宗教上の行為の自由を含むが、外部的な行為となる場合には、公共の福祉、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳に服し、また他の者の信教の自由や思想・良心の自由など基本的な権利及び自由を保護するために必要な制約に服する。
宗教法人法は、「法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をした」り、「宗教団体の目的を著しく逸脱した行為をした」宗教法人が解散を命じられることがあると規定している。反社会的な違法行為に対する制裁として法人格のはく奪がなされるのは、公共の福祉のための制約として認められる。
宗教団体は「信教の自由」に基づき宗教活動の自由、伝道・教化活動の自由を有しているが、他方、布教の対象となる個人も信教の自由をもち、当該宗教に帰依するか否かを自ら選択する自由・自己決定権を有している。この対象者個人の信教の自由を侵害する方法による伝道・教化活動は許されるものではない。
ちなみに、宗教を規制するにあたっては、行為者である個人や団体の信条や教義の内容にまで立ち入ってこれを法律が問題として取り扱うことは慎まなければならない。「法は異端を知らない」との言葉があるように、法的規制は、異端かどうかによって行うものではなく、あくまでも違法な行為に対して行われるべきものである。
(三) 政治と宗教
政教分離の本来の意味は、宗教を信じている者が政治に口出ししてはいけないという意味ではなく、、、、、、、
(2023年02月05日号 04面掲載記事)