「舞台はスピリチュアルな教会で」 映画「対峙」フラン・クランツ監督インタビュー
高校銃乱射事件で共に息子を失った被害者と加害者の両親が顔を合わせ、会話するという映画「対峙」が2月10日から、TOHOシネマシャンテほか全国の映画館で公開される。本紙では、脚本も手掛けたフラン・クランツ監督にインタビューした。
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映画を拝見した。リチャードは加害者の父親なのに、冷静沈着に答えていたことに違和感を覚えた。あえてそういうキャラクターを設定したのか。
リサーチし始めた時は、(犯行に至った背景として)息子にきつく接していたのかもしれないと、罪悪感をもった、感情を殺し殻にこもったキャラクターを書いていた。だが、実際にいろいろな銃撃事件の加害者の両親の話を読むと、モンスターと呼べるような親は一人もいなかった。確かにネグレクトや家を不在にしがちの親はいたが、多くの場合は、自分は息子にとっていい親だと思っている。ただ子どもを愛するあまりに間違った選択をしてしまっていた、ということが多かった。その上で、自分だったらリチャードをどう描くべきか考えた。そうしてできたのが、分析し過ぎるぐらい科学的な視点をもち、ストイックに冷たくこの事件を見つめ、前進することしかできないキャラクターが生まれた。この姿はとても真実味があると思ったし、見るほうは居心地が悪くなる。「えっ?」と思ってしまうのは、彼にもう少し悲しみや悔いといった何らかの感情を見せて欲しいと期待してしまうからではないか。
被害者家族には感情移入しやすい。だが、この映画では加害者家族のほうもかなり比重を置いて描いているが。
僕は役者であって、脚本と監督をしたのがこの映画が初めて。この映画は役者としてアプローチしている。4人にはそれぞれ伝えたいものがある。それがしっかり描けているか、会話が成立しているか、みな存在感をもって参加しているか、4人の視点と立場が真実と思えるものに近いものなのか、確認しながら脚本を書いた。
見る側からすると、加害者の親は何か間違ったことをしたのかと見てしまう。でも、そうではない。コロンバイン高銃撃事件の犯人の親やサンデーフィック事件の犯人の親はものすごくたたかれた。だが、話をよく聞くと、息子をどう扱えばいいのか必至だった。私たちは、何か間違いを犯していたのだ、というほうがのみ込みやすいが、自分が犯してしまった間違いがよく見えていないだけだった。でも、そこには真実がある。結果的には、観客もそれぞれのキャラクターに共感できるものになったのではないか。
今回の映画のテーマには、赦しとか和解があると思うが、フランツ監督は「お互いの悲しみと痛みを共有できたなら、赦しは重要なことではなくなる」と言っている。その真意は何か?
僕は南アフリカの真実和解委員会に非常にインスピレーションを受けている。この委員会のもと、アムネスティの聴聞会が開かれ、そこでアパルトヘイトの加害者と被害者が話し合うということがあった。そこで扱われていた修復的手法やデズモンド・ツツ大司教の話を読んだりした。つまり、一つの物語、真実を相手に話せれば、人間の体験として苦しみ、痛みを分かち合うことができれば、糸をつなげることができる。聴聞会では、話すことで赦しや恩赦につながっていった。映画に登場する4人の中には、赦せる者もそうでない者もいたが、少なくとも真実を語り、苦しみを分かち合うことはできた。大事なのは、自分の物語を相手に知ってもらうことで、そこで赦した赦されたは関係ない。だから、「赦しよりも~」という言い方をした。
話し合いの場所が教会で、賛美歌が流れて来るシーンがある。最初からそういう設定にしようと思われていたのか。
4人が過ごす場所はなるべく居心地のいい場所にしたかった。4人がまず会って話すという勇気を祝福したかった。だから、今回の舞台は絶対にスピリチュアルな場所にしたいと思った。自分の中では、悲しみに向き合うことはスピリチュアルな道のりだ。存在の意味を考えざるをえない。この時に、何か信じるものが必要なのだと思った。それは人にとっては神であったりする。僕自身は子どもの頃はキリスト教に触れながら育った。今は無信仰だが、今の時代はとてもスピリチュアリティ―が失われていることを心配している。だから、スピリチュアルな舞台にしなければと思い、自分の子ども時代の体験からキリスト教が背景になった。
本日はどうもありがとうございました。
【映画「対峙」公式サイト】URL https://transformer.co.jp/m/taiji/