第二次大戦中ポーランドからナチスドイツの迫害を逃れ、外交官杉原千畝の「命のビザ」で日本に避難した、オーストラリア在住のマルセル・ウェイランドさんが2月24~26日、三女のミカエラ・シモニさんと共に、82年ぶりに神戸を訪れた。当時神戸に避難してきたユダヤ人は5千人を超えるといわれる。95歳のマルセルさんは、残り少ない生き証人の一人だ。
今回の来日は、オランダ大使館(東京都港区)で、2月23日から25日まで開催された「ズワルテンダイク・オランダ領事と『命のビザ』の知られざる原点」展に合わせたもの。戦時中、リトアニアのオランダ領事だったヤン・ズワルテンダイクの発行した、名目上オランダ領キュラソー島を目的地としたビザ(後にキュラソー・ビザと言われる)と、リトアニア日本領事代理だった杉原の発行した日本の通過ビザが、5千人のユダヤ難民の命をつないだ。

82年前、上海に向かった第4突堤で。右からテオ・ピータスオランダ公使、マルセルさん、娘のミカエラさん

 

 

マルセルさんと姉のマリアさんにインタビューをした論文「ユダヤ難民と日本(1940~41)─ヴェイラント=ヤクボヴィチ家の足跡を辿りながら─」が、2018年に東京理科大学の菅野賢治氏によって発表されている。それによれば、当時13歳だったマルセルさんは、父母と2人の姉と姉の夫の6人でポーランドを脱出した。逃走の背後でどんどん国外への道が閉ざされていくような戦況だった。命からがらたどり着いたリトアニアで出国のための手続きに奔走し、一家はシベリア鉄道でウラジオストックの港を目指す。欧亜連絡船で福井県敦賀港に到着したのは1941年3月13日。不安と緊張の鉄路からようやく解放された船上での気持ちを、マルセルさんは「冷酷な冬から愛らしい春への移行」と感じたと、菅野氏は記している。その後神戸に向かい、9月に上海に渡るまで過ごすことになる。
今回神戸を訪れたマルセルさんを案内したのは、神戸ユダヤ難民研究会。マルセルさんは、当時借家の近くにあったアメリカ人宣教師の小さな学校で英語を学び、大丸デパートの食堂で焼きそばを食べるのを楽しみにしていたという。空襲のあった神戸は、当時の住居跡など確認することはできなかったが、ユダヤ人の人気スポットだったという元町商店街やデパートなど、面影の残る場所を喜んでいた。

元町商店街を楽しむマルセルさん(右)と、神戸ユダヤ難民研究会の石井田直二さん

 

 

一家が上海に向けて出港した現神戸ポートターミナルにも足を運んだ。上海に向かったのは、日米開戦を控えた日本の方針転換による。緩やかだった難民政策は一転、神戸在住ユダヤ人の上海移送が決まった。一家は上海で終戦を待ち、その後渡豪する。マルセルさんは現在、5人の子どもと21人の孫、3人のひ孫がいる。「勇気ある人たちのおかげで幸せな人生を送ることができた」と、感謝していたという。

神戸で開かれた交流会では、当時難民支援に尽力していた故瀬戸四郎牧師の孫の偉作牧師が当時を振り返った、、、、、、

2023年04月02日号   06面掲載記事)