「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか」
弟子たちに欠けていたものは?

木原 活信 同志社大学社会学部教授

聖書の中には、よく考えてもその真意が十分に理解できない箇所が幾つかある。その一つに、弟子たちが癒やしの奇跡を起こすことができなかった理由をめぐる箇所(マルコ9章17節~29節)がある。

なぜ、弟子たちは癒やしの奇跡を起こせなかったのだろうか。弟子たちはいい加減な態度で十分に祈っていなかったのだろうか。普通に考えれば、遣わされた彼らはイエスから直接訓練を受け、それに従って祈りつつ行動したはずである。だから彼らはイエスに「そっと尋ね」て、「なぜですか」と聞いたのである(28節)。イエスはそれに対して「祈りによらなければ…できません」(29節)と答えた。

そうなると、弟子たちはただ口先で祈っていただけで、祈りの真剣さ、熱心さが足りなかったのだろうか。確かに異本に「祈りと断食を加えるものもある」となれば、熱心な祈りの欠如という説明がわからないわけではない。それでも今一つ理解ができないのは、何かが出来なかったら、人は通常、一層必死になり、熱心な祈りに向かうはずである。それでも「祈り」が足りないと言われると、激しい滝に打たれる修行者のような加持祈祷を連想してもおかしくない。祈りの真剣さが大切なのは当然であるが、それではイエスのここでの答えの真意は何だったのだろうか。

この謎について、次のように考えた。並行箇所のルカの福音書(9章46節~55節)ではこの話に連続して弟子たちの三つの態度が記載され、いずれもイエスに厳しく叱責されている。一つ目は「(弟子の中で)誰が一番偉いか」という論争。その高慢さを指摘され子どものようになる謙虚さを勧めた。

二つ目はセクト主義。自分たちの「仲間」や「派」ではないグループの活動をやめさせようとする排他的なセクト意識を咎(とが)めた。

三つ目はイエスを受け入れないサマリア人を抹殺しようとする過激な暴力的発想を厳しく叱責し、寛容な態度になることを指摘した。これら三つの共通点は、弟子たちが特別な権限が与えられたゆえにあたかも自らの力で何でもできるというような錯覚に陥り、万能感に満ち溢(あふ)れ、力の行使のみに関心がいってしまっている態度であった。彼らの祈りは力の行使への願いであったのであろう。

イエスにあって、弟子たちに欠けていたのは何か。それは苦しむ当事者(発作を起こして苦しんでいる一人息子やその父親)への愛、すなわちコンパッション(共感共苦)の愛である。彼らは祈っていたとしても、それは自らの力の行使への実現への願い(いわば奇跡のための「信仰力」)のようなものであり、それは苦しむ者への真の愛に基づくとりなしの祈りではなかった。

一方、息子の父親はどうか。弟子たちのように「信仰力」の「自信」に溢れている姿とは対照的であった。「不信仰な私をお助けください」(24節)という率直な言葉に示されるように、自らの弱い信仰を認めており、そこには自力的な発想は微塵もない。父親には「信じること」さえこころもとなく、それに自信のない自らの「信仰」の状態と弱さを素直に認め、それを「信じることができるように」助けて欲しいと謙遜の限りを尽くしてイエスへ嘆願している。

一見、頼りないように見えるが、実は、これが人間の真の姿であり、そもそも信仰とはそのようなものではなかろうか。なぜなら信仰は、実は人間の内からの力ではなく、「恵みの業」として神から与えられたものだからである。弟子たちと父親が決定的に違ったのは何か。父親は、息子を愛し、それゆえに自ら痛み苦しんでいるコンパッションの祈りでイエスに迫っている点である。弟子たちに決定的に欠けていたのはこのコンパッションの愛に基づく祈りであったのであろう。

2023年06月25日号 03面掲載記事)

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