8月6日広島、9日長崎に原爆投下されてから78年。今年も広島、長崎で原爆で亡くなった人たちを追悼する礼拝、集会が開かれた。

広島では、6日に「被爆76年8・6キリスト者平和の祈り」が、広島市中区の日基教団・広島流川教会で開かれた。カトリック広島司教区、日本基督教団広島西分区、日本聖公会広島復活教会、広島市キリスト教会連盟共催。「再びの戦争よ あるな!」と題し切明千枝子さん(94)が被爆証言した。
切明さんは広島第二県女(県立第二高等女学校)4年生だった15歳の時に被爆。原爆で町は火の海になったが、町の中心地から離れたタバコ工場で働いていたので助かった。だが、「下級生は学徒動員で、市役所や県庁の周りで防火用の空き地を作る作業をしていたので、かわいそうだった」。

原爆投下後の広島の悲惨な現状を証言する切明千枝子さん

その下級生の数人が、市役所のほうから学校まで戻ってきた。「髪の毛はチリヂリで顔は腫れ上がり、服は焼け、全身やけどだった。治療する医者もおらず薬もなく、理科の実験室にあった古い天ぷら油を塗ってあげるのが精いっぱいの手当だった」
「熱いよ、痛いよ、かあちゃん」、「お水ください」と泣き叫び、懇願する下級生たち。だが、「水を飲ませたら死ぬ」と先生から聞いていたので、「のどが渇いているだろうけど我慢して。死んじゃダメ」と耳元で叫んだ。すると「死んでもいいからお水飲ませて」と懇願された。「その子は助からなかった。せめて水ぐらい飲みたいだけ飲ませてあげれば良かったと、今も悔いている」と話す。
被爆した下級生たちは、次から次へと亡くなり、切明さんら生き残った人たちの手で火葬された。「薪代わりに校舎の天井板をはがして並べ、遺体を積み、天ぷら油の残りを振りかけて焼いた。この手で何人下級生を荼毘(だび)に付したことか。焼いた後は泣きながらお骨を拾った。お骨はのど仏と小指の骨だけを拾えと言われていたので、それ以外は全部土に埋めた」。「今の広島は、原爆で亡くなったご遺体の上にあると思っている」と話した。
切明さん自身は助かったが、子宮がんを発症するなど原爆症に苦しみ、手術を4回受けた。「医学の進歩のおかげで94歳まで生きさせてもらった」と語る。しかし、「生き延びたことで、ラッキーだと思ったことは一度もない」と言う。「何で自分だけ生き残ったのかと思って悲しかった。『お前は後々の人々に伝えよ』と、大きな力が私を生かしてくれたのだと思っている」
「二度と戦争で、核兵器で死ぬことがあってはいけない。そのために何をしたらいいか考えてほしい。子どもたちの将来が平和の世界であるように」と結んだ。
切明さんの被爆証言は、広島流川教会のウェブサイト(URL https://nagarekawa-church.com/)で聴くことができる。