新約聖書の平和論ー黙示録の暴力的記事をどう読む 福音主義神学会東部で山﨑ランサム氏〈後編〉
【研究発表】山﨑ランサム和彦氏
米国のベテル神学校(神学修士)とトリニティ神学校(哲学博士)で学ぶ。専攻は新約聖書学。聖契神学校教務主任、鶴見聖契キリスト教会協力牧師。米国聖書文学会(SBL)会員、日本新約学会会員、日本福音主義神学会東部部会理事。
前回
☆新約聖書の平和論ー黙示録の暴力的記事をどう読む 日本福音主義神学会東部部会 春期研究会発表より〈前編〉 2023年07月16日号
「キリストの平和」を主題に行われた日本福音主義神学会東部部会の春期研究会(5月29日)から、山﨑ランサム和彦氏による研究発表「新約聖書の平和論|黙示録を中心に」概要。後編では、ヨハネの黙示録の中心的なメタファーである「屠られた子羊としてのキリスト」について、5章を鍵として考察を進める。
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ヨハネは天上の神の御座の幻の中で、「ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利した」という声を聞く(5節)。「ユダ族の獅子」や「ダビデの根」はユダヤ教において敵を征服する王としてのダビデ的なメシアを連想させる表現であり、神の救いを待ち望む読者の期待に沿うイメージであった。そしてダビデ的な王としてのメシアの標準的な働きは、悪の勢力を暴力的に滅ぼすことだった。
しかし、ヨハネが実際に目にしたのは「屠られた姿で立っている」「子羊」であった(6節)。これは明らかに十字架と復活を表している。ヨハネは、勝利するメシアは十字架で死んでよみがえったイエスだと言う。しかし、イエスが子羊にたとえられているのは何を意味するのだろうか。
黙示録5章で「子羊」のギリシア語はarunionであるが、この言葉をキリストに対して用いるのは黙示録のみである。ルカ10・3でイエスが弟子たちを遣わすのは「狼の中に子羊を送り出すようなもの」だと語るが、そこで使われるギリシア語arēnの指小形がarunionである。キリストに対して使われているamnosは祭儀における犠牲獣としての子羊について用いられるのに対して、黙示録におけるarunionはルカ福音書におけるarēnと同様、傷つきやすさを強調している。すなわち、ヨハネが幻の中で見た勝利するキリストは、強さとは正反対の「弱さ」の象徴である子羊の姿をしていたというのである。
5章で初めて子羊としてのキリスト表象が現れるのは、修辞的な効果を狙ったものであり、読者に驚きと衝撃をもたらすことが意図されている。しかもこの衝撃は、この弱い子羊が神の巻物の封印を解くに唯一ふさわしい存在であり(9節)、あらゆる賛美にふさわしい存在でもあり(12節)、最後に全被造物によって神と同格の立場でほめたたえられる存在である(13節)とされることによって、最高度に高められる。ここは疑いもなく、黙示録全巻における中心的クライマックスである。
最初に子羊のイメージが登場する黙示録5章において、子羊が獅子のイメージを置き換える形で登場することは重要である。獅子としてのキリストのイメージはこれ以降黙示録の中で二度と登場しない。これは、6章以降の幻において、イエスは獅子のように悪に勝利するが、それは屠られた子羊としてそうすることを意味する。これは、黙示録においてキリストが獅子のように描かれているところではどこでも、それを子羊と読み替える必要があることを示している。ヨハネは伝統的な「メシアの聖戦」という主題を逆転させ、キリスト教的に再解釈している。たしかにイエスは悪の力に勝利するダビデ的メシアである。ただし、その勝利は軍事的戦いを通してではなく、十字架における犠牲的な死を通して得られるものである。
「屠られた子羊」としてのメシア像は、キリスト教以前のユダヤ教にはなかったキリスト教的イノベーションである。悪に対する神の終末的勝利を描く際に、ヨハネが伝統的な黙示文学的形式を採用しつつも、それに重要な変更を加えている場合、その変更点こそが彼が黙示録で伝えたい中心的メッセージであると考えることができる。
したがって、「屠られた子羊」としてのキリストのイメージとそれに伴う再解釈されたメシア像は、黙示録全体を読み解く解釈レンズとして機能する。ヨハネは伝統的黙示文学の「表現」をふんだんに用いるが、それらを異なる「意味」を伝えるために用いているのである。読者は黙示録における聖戦の描写を読むときに、それを文字どおりに受け取るのではなく、キリスト教的に「証しと殉教を通した勝利」と読み替えるように求められるのである。黙示録の直接的な批判対象はローマ帝国であるが、ヨハネは読者に対してローマに対する聖戦|積極的抵抗|を呼びかけている。ただしそれは物理的暴力による抵抗ではなく、キリストへの証しと死に至るまでの忠誠をもってなすべきものなのである。
子羊の軍隊
キリスト者の戦い
黙示録には「戦い」のイメージがあふれており、教会にも適用される。アジア州の7教会へのメッセージでは、教会に対して「勝利を得る者」に対する報いが語られる。新天新地と新しいエルサレムの幻についての後、「勝利を得る者は、これらのものを相続する」と語られる。ヨハネは教会を戦う存在として捉えている。しかし教会が何とどのように戦うのか、具体的には書かれていない。
黙示録のナラティヴを読み進めていくと、教会が戦う相手は「獣」と呼ばれる存在である。13章で海から上って来る獣はダニエル書7章を下敷きとしており、ローマ帝国を表している。この獣は「聖徒たちに戦いを挑んで打ち勝つことが許された」(黙示録13・7)。
教会は獣に敗北するように見えるが、ヨハネはその真の意味を12章11節で明らかにする。「兄弟たちは、子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに竜に打ち勝った。彼らは死に至るまでも自分のいのちを惜しまなかった」。黙示録において竜はサタンを表し、獣を支配する存在である。獣との戦いは究極的には背後にいる竜との戦いであるが、教会は竜に打ち勝つ。それは殉教の死による勝利であった。
死に至るまで忠実な証しによる教会の勝利が、屠られた子羊キリストによる悪への勝利と並行的に語られていることに注意しなければならない。キリストは黙示録において真実な「証人」として描かれている。神の真理に対して十字架の死に至るまで真実に証しをすることこそが、キリストが地上の悪に打ち勝つ方法であった。このようなキリストの姿が、キリスト者が悪と戦う際の模範となる。その戦いは剣によるのでなく、証しと殉教によるのである。
このような「聖戦」概念の再解釈は、先に述べたメシア概念の再解釈からの論理的帰結ということができる。子羊として支配するイエスに従う者たちが形成する共同体は、この世界の権力に対する根本的な挑戦を突きつける。しかしそれは物理的な暴力による戦いではなく、忠実な証しを通して行われなければならないのである。
(2023年07月30日号掲載記事)