「良心の主」の座を奪う動きがあれば良心ゆえに抵抗

「教会と国家」

キリスト者、教会はどのように政治との関係をみていくのか。この点に関しては、教会は昔から「教会と国家」という点を、置かれた時代の中で聖書から神学的に深めてきました。その神学的遺産に助けられて申し上げますと、教会も国家も、主イエスキリストの主権の下に立てられています。日本の場合はそれをほとんどの為政者が自覚しているわけではないのですが、私たちは信仰によってそう捉えます。

さらに私たちの政治への向き合い方として、聖書から確認しておきたいことは、⑴為政者たちのために「願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい」(Ⅰテモテ2・1~3)ということ。⑵そして「上に立つ権威に従う」(ローマ13・1~7)ということです。ただし、為政者は「神のしもべ」(同)です。その権威は、「神によって立てられている」(同)という認識が要となります。ですから、国や為政者が神から委託された領域を超えることがあれば、教会はそれに抵抗することにもなります。

抵抗権と良心

ここからキリスト教会の中で抵抗権が説かれてきました。プロテスタント教会の礎を築いたと言えるカルヴァンは、『キリスト教綱要』で、私たちが「上に立つ者の支配権に対して義務づけられている服従には、常に例外がある。いや、むしろこれこそ第一義的遵守項目である」(Ⅳ・20・32)と言い、それは「そのお方(神)への服従から我々を引き去ることがあってはならない」(同)でした。それゆえに「神に逆らう命令が発せられるにしても、そのような命令は何一つ認めることはできず、(中略)我々は神の最高の権能の前での秩序を何ら侵していない」(同)となるのです。この抵抗権の思想は、これ以降も受け継がれ、より鮮明になっていきます。

合わせて考えておきたいのは私たちの良心の働きです。カルヴァンは良心を「ちょうど人に付き添う見張り役のようなもの」(Ⅳ・10・3)とたとえます。そして「良心は神に向けて差し出されるもの」、「良心はただ神とのみ関わる」(Ⅳ・10・4)と言います。ここから後に「神のみが良心の主」という信仰告白の言葉が紡ぎ出されていきます。こうして、上に立つ権威が「良心の主」の座を奪おうとする動きがあれば、教会は良心のゆえに抵抗をもしていくのです。

 近年の事例

問題の濃淡はあるのですが、これらの点について教会が問われた(ている)近年の事例を紹介してみます。1999年前後の政治と教育界の動向の中で、教員キリスト者たちへの「日の丸・君が代」の強制がありました。また2022年国葬に際し、私が属する教団では国民の弔意の表明について事実上の強制がなされないだろうかと懸念し、総理大臣宛に文書を送りました。

さらにかなり特例ですが、コロナウイルスへの脅威がまん延する2020年、群馬県のある町で次の言葉を含む独自の緊急事態宣言が出されました。「家でお祈りしても気持ちは通じると思いますので、教会等の集会なども当面の間行わないようにお願いします」。これは行政による教会の領域への踏み込み過ぎだと私は思いました。当時、結果的に行政担当者と地域教会の間で実に友好的な話し合いがあり、行政がこの一文を削除してくださったことによって、事態は迅速に収束します。

教会の「不断の努力」

聖書から神学的思考をもって社会を見つめ、必要ならば言葉を発し態度を定めることは教会の務めです。世界の教会も日本の教会も、歴史の中でこの務めを続け、また過ちをも犯してきました、、、、、、

2024年02月11日号   04面掲載記事)