【神学 聖書考古学】聖書考古学2023発見トップ10 クリスチャニティ トゥデイが選んだ
本紙提携の米福音派誌クリスチャニティトゥデイが昨年12月20日、2023年の聖書考古学の主要な発見トップ10を発表した。記事によると、今後の発掘によって解決されるかもしれない謎や、過去10年間、新約聖書学者たちを悩ませてきた論争が解決されるかもしれない発見も含まれている、という。
10 ガザで失われた墓
9月末近く、ガザの考古学者がローマ時代の墓地で墓を発見したと発表した。フランスの考古学者ルネ・エルターのもとで作業していたクルーは、2千年前の沿岸交易路沿いの住民の生活に関する重要な情報を発見した。非常に珍しい二つの鉛の棺で、一つは華麗なブドウの葉で装飾されたもの、もう一つはイルカの絵が描かれたもの。
「林に囲まれた何の変哲もないアパートの目立たない建設地が、考古学者にとっては金鉱となった」とAP通信は報じた。その2週間後、ハマスの武装勢力がガザからイスラエルを攻撃し、戦争が始まった。
戦争は当然、イスラエル全土でイスラエル考古局(IAA)の仕事を中断させた。IAAの考古学者のなかには、古代の災害を研究してきた専門知識を持つ者もいたが、彼らのスキルは別の種類の仕事に必要だった。彼らは、ハマスに攻撃されたユダヤ人コミュニティーに呼ばれ、人骨の発見と同定を手伝った。
「2千年前の破壊の跡を明らかにすることと、入植地に住む私たちの姉妹や兄弟の証拠を探す現在の仕事を遂行することは、まったく別のことであり、悲痛で理解しがたい」とIAAは述べている。彼らは、これまで行方不明とされていた少なくとも10人の死者を特定するのに役立つ証拠を発見した。
9 古代イスラエルの人のDNA
10月初旬に発表された、第一神殿時代の古代イスラエル人のDNAが発見されたというニュースは、戦争のニュースに紛れてほとんど報道されなかった。エルサレムの西にある家族の墓から発見された、紀元前750年から650年頃の二人の遺体から遺伝物質が抽出された。
この成果は、「失われた文明の研究における聖杯」であり、「古代イスラエル人の起源に関する長年の疑問について、さらなる研究の道を開くことを約束する」と評された。この成果は考古学的新発見に関する会議で議論される予定だったが、イスラエルとハマスの紛争により延期された。
8 古代の戦争最古の証拠
聖書には創世記14章のアブラハムの時代にまでさかのぼる戦争の記述あるが、考古学者たちは、その数千年前、紀元前5800年から4500年ごろの石器時代前期の武力紛争の証拠を発見した。
イスラエルの二つの異なる遺跡から、均一で流線型の形状に加工された数百個のスリングストーンが発見されたのだ。これは、組織的な戦闘準備を示している。ガリラヤ下流域とシャロン平原北部にある二つの先史時代の遺跡の規模は、戦争の準備に多くの人々が必要であったことを示している。
7 アンティオキアの平定
2022年、トルコの考古学者たちは、イエスの信奉者たちが最初にキリスト教徒と名乗った古代都市アンティオキアの遺跡であるアンタキヤの住宅地で、初めて発掘作業を開始した。この発掘調査によって、アンティオキアでの生活について多くの新しい発見があるかもしれないと期待が高まった。しかし、2月6日にトルコとシリアを地震が襲った。アンタキヤは最も壊滅的な被害を受けた都市のひとつで、3万5千人以上の死者が出た。1世紀以前にさかのぼる多様な歴史を示すモニュメントを含む旧市街地は瓦礫と化した。発掘計画は無期限で保留されている。
6 シロアムの失望
新約聖書の時代、エルサレムを訪れた人々は、シロアムの池の片側に並ぶ階段を見ていた。この池は、ユダヤ人巡礼者が神殿に上る前に儀式的に清める場所であった。イエスは盲人を癒やし、シロアムの池で洗うように言われた。
この階段は2004年、下水修理の際に偶然発見されたが、果樹園を保護するために発掘は制限された。しかし、考古学者と地元当局は、さらに多くの発見がある可能性に胸を躍らせ、果樹園を壊して発掘することにした。だが、何も見つからなかった。階段はその上に道路が建設されたときに保存されたようだが、プールの残りの石はそこにはない。おそらく古代に他の建築プロジェクトのために運ばれたのだろう。
5 砂漠の山の頂上で発見された詩篇
考古学者たちは、死海を見下ろす砂漠の山の上にある要塞ヒュルカニアで発掘の最初のシーズンを迎えた。この要塞はハスモニア人によって築かれ、その後ヘロデ大王の牢獄として使われ、さらにビザンチン時代の修道院として使われた。崩れた建物の石が積み重なるなか、考古学者たちは赤く塗られたシンプルな十字架とその下に刻まれた碑文を発見した。それは、詩篇86篇の一部を引用した祈りの言葉だった。
碑文の様式から判断してこの碑文は紀元6世紀のものとみられる。
4 ダビデ・ソロモン王通説覆し聖書と一致
数十年間、マイナーな族長と見なされていた3千年前のイスラエルの王たちが、驚くべき復権を遂げた。ヘブライ大学の考古学者ヨセフ・ガーフィンケルが発表した論文は、エルサレムを囲む五つの遺跡の発掘調査を検討した結果、類似した要塞やその他の都市の特徴が、当時の中央集権的な王国に関する聖書の記述と一致すると結論づけた。「これらの都市は人里離れたところにあるわけではない。同じ都市概念を持つ都市のパターンだ」
10年間テル・ゲゼルを発掘してきた考古学者たちは、11月に放射性炭素検査の結果を発表し、ゲゼルの有名な六つの部屋からなる門の建設が紀元前10世紀前半のものであることを明らかにした。本研究の主幹でオーストリア考古学研究所のリンデル・ウェブスターは、「これによって、ダビデとソロモンは、少なくともこの地域の記念碑的建築物の一部に関与していたことになる」と語っている。
3 テル・シムロンの泥レンガアーチ
イスラエル北部のエズレル渓谷を見下ろすカナン人の都市アクロポリスで、非常に保存状態の良い泥レンガのアーチが慎重に発掘された。アーチ型の回廊からテルの奥深くへと続いており、その端はまだ発掘されていない。
このアーチの目的はまだわかっていない。建設後すぐに埋め戻され、保存されたようだ。シムロンは聖書にはほとんど記されておらず、2017年に発掘が始まるまで、考古学者たちはほとんど見過ごしていた。
2 ガリラヤ沿岸のベツサイダ特定
考古学者たちは、ガリラヤ湖近くのビザンチン時代のバシリカ跡を注意深く掘り進み、真正のベツサイダの地の遺跡を発見したと確信している。22年、彼らは 「天の使徒の長であり総帥」に言及するモザイク碑文を発見し、この古代の教会がペテロを記念して建てられた可能性を示唆した。伝承によれば、使徒教会は使徒ペテロとアンデレの家の上に建てられたという。
今回、後陣の地下深くに1世紀の壁の跡が発見されたことで、この発掘調査は最高の評価を受けた。この発見は、ここが歴史的なベツサイダであり、数マイル内陸にあるエッ・テル遺跡ではないという議論に重みを加えるものだ。
今後も発掘を続ければ、初期の使徒たちの生活についてさらに多くのことがわかるかもしれない。ヨハネはベツサイダをアンデレとペテロの町と呼んでいる。しかしマルコは、彼がカペナウムに住んでいたことを示唆している。ペテロは二つの異なる漁村に住んでいたのだろうか?
1 エルサレムの謎の堀
考古学者たちは、エルサレム最古の地域の岩盤に掘られた水路に謎を感じていたが、それが9世紀に作られた堀の一部であることを突き止めた。報告書によると、この堀はエルサレムがユダの首都であったころ、そしておそらくそれよりも何百年も前に、神殿の丘とより古いダビデの都の下の地域とを隔てていた。
「当時のエルサレムがどのようなものであったのか、私たちが復元したところでは、神殿の丘からダビデの都の下まで、連続した都市景観があるだけだった」と、発掘の共同責任者イフタ・シャレフは語った。今回の発見は、そのイメージを完全に覆すものだ。
キャスリーン・ケニヨンが以前行った東側の発掘調査でも幅100フィート(約30メートル)近く、深さ20フィート以上の堀が確認されていたが、専門家たちは、それは景観の自然な特徴であり、都市建築の一部ではないと考えていた。しかし、シャレフと彼のチームは、この堀が神殿と宮殿、そしてそれ以外の人々が生活する地域の間に障壁を作っていたと結論づけた。神殿や宮殿が建設される以前の時代には、この堀が北からの攻撃から都市を守っていたのかもしれない。
ギヴァティ駐車場の発掘として知られるこの特別な発掘調査は、2007年の開始以来、ビザンチン時代の金貨の宝庫やヘレニズム時代の陶器の屋根瓦など、多くの驚くべき発見を生み出してきた。
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このほか番外だが、考古学者たちは死海近くの洞窟で、以前発見された鍾乳石の碑文をよく観察したところ、、、、、、
(2024年02月18日号 06面掲載記事)