碓井 真史 新潟青陵大学大学院教授/心理学者

善意で動く時こそ 要注意

2024年は大災害から始まった。大災害は全てを奪う。大災害は時を選ばず、大災害は人を選ばず、大災害は正月にも善人の上にもやってくる。新築の家を破壊し、最愛の人の命を奪う。全壊し た教会堂もある。私たちは祈る。私たちは献げる。そして現地へ行く人もいる。ボランティアに励む人もいれば、福音を伝える人もいる。役に立ち喜ばれる人もいれば、役に立たず嫌われる人もいる。

動機は善意だろう。しかし善意なら良いわけではない。悪意がないなら許してあげよう、被災直後にそんな余裕はない。善をなすときは微に入り細に入りだ。たとえば、私が金儲けでカレーを作ったとしよう。もし全然売れなければ、別メニューを考える。売れるものを用意する。だが、私が100%の善意ならどうだろう。心を込めて作った最高のカレーだ。何とか食べてもらいたいと願う。受け入れられなければ、泣いたり怒ったりするかもしれない。無理強いしてしまうかもしれない。善意で動く時こそ要注意だ。ボランティア活動は、その三分の一でも喜んでもらえれば御の字だ。

キリスト教団体の支援活動は、長く持続的に行なってくれるとの好評も聞く。被災地で、無遠慮にゴスペルソングを歌い怒鳴られた話も聞いた。牧師自身も被災者として、子どもを亡くしたお父さんと共に、何も言わず男泣きに泣いた人もいた(その後で牧師は聖書を開く)。

ある避難所の出来事だ。大人たちは復興作業に励んでいた。幼い子どもたちには、日本中から慰問団が来ていた。問題は中高生たちだ。何もすることがなく、死んだ魚のような目をして日々を過ごしていた。そこに一人の牧師がやってきた。大人たちには、中高生にも手伝わせてほしいと頼み、中高生には大人たちを手伝ってほしいと頼んだ。そうして中高生たちも復興活動に参加し始めた。彼らの目が輝き始め、避難所の人々からの見る目も変わっていった。

ある災害心理学者が言っていた。心理学者、カウンセラーとして災害避難所に行くならば、名札を外せ白衣を脱げ。一緒にバケツリレーに加わり、冷たい握り飯を食え。その中で、自分の知識や技術を活用しろ。きちんとカウンセリングルームがなければ仕事ができないなどと言う人は、災害直後の被災地には入るな。

大災害は「神」を奪うと語る研究者もいる。これは信仰心を無くす意味ではない。人々が持っている夢や希望、努力は報われるといった信念を失うのだ。支援が遅れれば、見捨てられたとも感じる。道路や家が復興しても、心の復興はさらに時間がかかるだろう。

人にはその時々に役割がある。災害発生時も同じだろう。被災地のニーズは多様だ。単純にマニュアル化もできない。私は私のできることを、私のできる範囲で精いっぱいやっていきたい。私たちの祈り心が、行動となり、主にあって用いられますように。