3月に開催された、ローザンヌ運動の若手リーダー大会「JAPAN YLG 2024」(4月7日号既報)。「旅の友となる―福音のつながり、福音のひろがり―」をテーマに、安藤理恵子さん(玉川聖学院学院長)の連続メッセージを軸として各種プログラムが展開された。毎日異なるキーワードが設定され、初日は「栄光」、二日目は「堕落」、三日目は「福音」、最終日は「宣教」。
本連載では大会の内容を伝える。今回と次回は、初日の安藤さんのメッセージ「栄光を帯びた務め」を抄録。

高慢な自分をなお神は用いる
不信仰な遠慮ではなく応答を

―神の栄光のリアリティーは、この方のことを、主体性をもって、知り続けていくことで、ようやく増し加わっていく。栄光が無かったことはない。明らかに在る。罪人である私たちはその実態がわかっていないが、神は栄光を預けてくださる(Ⅱコリント3:4~18)。

人からでなく 神からの資格

パウロは、使徒としての資格も、その仕事と成果も、自分によるものではないと言う。私たちがこの域に達するには、仕事をし続けることが必要だ。
人が高慢になるのは入口に立った時。人に向き合い、宣教し、失敗し続けていくと、やがて自分の愚かさに気づく。実力や経験や力や、そんなもので結果は出ない。神が私を押し出しているとしか思えない、と。
人と関わらなければ自分の高慢さには気づかない。人と関わり、心がざわつく経験をし、「こういうレベルの低い自分をなお神様は用いてくださる」という事実に何度も何度も出会い、実体験として学んでいく。

文字でなく 御霊に仕える資格

文字(もんじ)とは律法、それは死に仕えることだ、とパウロは言い切る。律法の正しさは人間を切り刻む。私たちは人にいのちを与える働きをしているつもりで、未だに死に仕えている場合がある。
人を裁くという霊的な高慢は、私たち罪人がキリストに従おうとする時、通らざるを得ないこと。問題は、その気持ちよさに留まらずに先に進むかどうかである。
優越感や存在意義のための献身でなく、たとえ評価されなくても、人々がいのちを得るため、自分の命を費やしていく。その心にシフトしていくことが、霊的な高慢から逃れる唯一の道である。

一時的でなく 永続する資格

人生全体で見ればささやかな労苦や犠牲が、誰かの永遠の行く宛てを変えることができる。こんな重い資格を、誰が自分に見合ったものだと思えるだろうか、、、、、、、

2024年04月14日号 07面掲載記事)