日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団
嘉手納アッセンブリー教会牧師
神山 美由記

ペンテコステが近づくと天に上げられる主イエスを見上げる弟子たちの心情をよく想像します。ある人は主イエスが再び不在となる喪失感や不安が入り混じる戸惑いの思いではなかったかと言いますが、実際はどうなのでしょう。復活の主と過ごすうちに彼らの心は日々燃やされ、約束された聖霊を待ち望んで祈ることに焦点を絞り、期待にあふれていたのではないかと私は思うのです。

そして主イエスの昇天から10日後、五旬節の祭りの日に、弟子たちが集まっていると突然天から激しい風が吹いてきたような響きが起こり、炎のような舌が分かれて出現し、一人一人の上にとどまりました。そして、その場の弟子たちはあらゆる国の言葉で神の大きな御わざについて語り出したと記録されています。(使徒2・1〜4)
彼らの唇から語られる異国の言葉に周囲は「呆気にとられ」(同2・6)「驚き、不思議に思っ」(同2・7)た、と…。主イエスが約束された聖霊は、こうした弟子たちの心合わせた祈りの中に、そして周囲を巻き込む混乱の中で注がれていきました。しかし聖霊は彼らの群れをかき乱す風ではありませんでした。むしろ彼らを世界宣教へと押し出す追い風となったのです。

その後、ペテロは会衆に向かって旧約聖書の預言の成就、主イエスの十字架と復活に関して自分たちがその証人であると宣言しました。彼の真実な言葉を聞いて人々は「心を刺され」(同2・37)、罪の自覚、悔い改めへと導かれ、その日約3千人の人々が仲間に加えられたと記されています。
その中には、かつては主を十字架に追いやった人々もたくさん存在したことでしょう。しかし、ペテロや他の弟子たちは彼らを受け入れます。それは紛れもなく、彼ら自身も主の前に心を刺されるほど罪を示され、悔い改めに伴う赦しを体験した者だからです。
十字架を前に3度も主を知らないと裏切ったペテロでしたが、聖霊の力が与えられたことで、大胆に福音の言葉を伝えるキリストの証人へと変えられていきました。
まさしく聖霊の働きを通して人々は聖書を正しく理解し、復活のキリストを証しし、喜びを共有する共同体へと発展していったのです。

私は牧師子弟の同級生を通して教会に導かれました。まだ明確に信仰を持っていなかった中学3年生の夏休みにユースキャンプに初めて参加。そこで信仰決心をし、聖霊のバプテスマを受けました。その晩は100人近くの同世代の仲間たちと時を忘れて夜中まで祈り続けていました。聖霊に満たされる時に祈りと賛美が止まらなくなるのです。
それに加え、私に起こった一番大きな変化は宣教の思いで心が燃やされたことです。その後、家族をはじめ、学校の友人たちを教会に誘って回りました。救いの輪は広がり、家族は周囲の親族など含めると総勢4家族が導かれ、神の家族とされたのです。また、同級生たちも次第に教会に足を運ぶようになりました。その中から未来の献身者も輩出されていったのです。
聖霊は私たちを福音宣教へと押し出します。強いられてではありません、むしろ信仰の喜びとともに、伝えずにはいられないのです。まさしく宣教のための力の賦与と言えます。
使徒の働きにはこの後も、数多くの迫害や困難の中を通りながらも「聖霊に満たされて」御言葉を語り続ける弟子たちの姿が連続して記録されています。

この終わりの時代、頻発する自然災害や世界各地の紛争、円安に伴う経済的低迷などに心が覆われることがあるかもしれません。現代の信仰的迫害は外からではなく、私たちの内側に存在しがちだと言えます。しかし、その不安や恐れを覆って余りある聖霊の力を受けるときに私たちも弟子たちのように復活の主の御名を高く掲げ、御言葉に堅く立って歩み続けることができるのです。
混沌としたこの時代にこそ、福音宣教の追い風となる聖霊の力を受けて、大胆に主を証しし続けようではありませんか。