関東大震災の時、流言飛語により「朝鮮人虐殺」が引きこされた悲劇を心に刻み追悼しようと、今年も東京YMCA、東京聖市化運動本部、在日本韓国YMCA合同で「関東大震災 第101周年記念 追悼合同早天礼拝」が9月2日、東京・新宿区若宮町の在日大韓基督教会東京教会で開かれた。金迅野(キム・シンヤ)氏(在日大韓・横須賀教会牧師)がヨハネによる福音書20章19~22節から「聖霊を受けて平和にむけて歩もう」と題して説教した。
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 最初に金氏は、こう語る。「101年前、天災とは別に人災、すなわち朝鮮人、中国人、東北を中心とした日本人、被差別部落の人々が殺害された。調査により被害者の数字が違うが、どれが正しいかより、同じものを見たのになぜこの違いが現れてしまうのかを考えることが大事。多大な痛みや死をなかったことにする人々の思いがまん延する社会に、一体何を示していけるのか、101年前の事件が今の私たちに問うている」

金迅野氏

「テッサ・モーリス=スズキという歴史学者は、『連累(れんるい)』という言葉を使う。語源をたどると、折りたたまれているという意味だ。普段はひも解かれず、意識されない。だが、そういうものこそ想像力が必要ではないかと言う。私たちもこの地にあって歴史のひだの中にあり、今日のような日にそれを開き、イエス様の言葉をかみしめる必要があると思う」
「イエスはここで復活の身体をもって、これから到来するかもしれない暴力への恐怖におびえる弟子たちの前に現れ、『あなたがたに平和があるように』(19節)『聖霊を受けなさい』(22節、どちらも新共同訳)と言われた。しかも、十字架で刺し抜かれた傷痕を残したままで現れた」
「なかったことにすることに快感を覚える人は、それらを思い出させることに反感を持ったり、自分を攻撃していると感じるかもしれない。しかし、ウトロ平和祈念館館長の言葉を借りれば、加害を認めることはより良い社会を望むこと、作ろうとする意志でもある。イエス様は身体に刻まれた傷痕を見せることで『なかったことにはしない』と伝えておられるのではないか」

追悼早天礼拝で説教に耳を傾ける参加者

「被害者の立場の近くいる人は、自分はイエスと同じだと思わない、断罪する立場に置かないことだ。イエス様が十字架にかかる時、逃げ出してしまった弟子たちの罪を、イエス様は問い詰めることなく『平和があるように』と言われた。私たちは『なかったことにしてはいけない』と声を挙げ、批判すると同時に、極めて困難で遥かな道のりだが、なかったことにしようする人々の心根に平和が訪れるにはどうすればいいか、この社会をより良くするためにどうすべきか、問わないといけない」
「私たちはよく忘れる、疲れる。だからこそ、聖霊を受けなさいとイエスは言われる。悔い改めの後、教会を作っていった弟子たちにならい、自分の中にも悔い改めることが多々あることを自認しつつ、この社会に平和をもたらすために、ささやかなことから始める者でありたい」と結んだ。