2017年10月08日号 04面

 「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 マタイの福音書28章19、20節

 はじめに  およそ150年前、開港後間もない横浜に長い航海の末、多くの宣教師たちが降り立った。おそらく彼らはマタイの福音書28章の言葉に突き動かされ、福音を伝えたい一心で幕末の切支丹禁教下にある横浜の地を踏みしめたのだろう。プロテスタント日本宣教の礎を築いた宣教師ヘボンとバラを中心に、彼らの残した文書やゆかりの地を紹介しながら、時代を超えて語りかける信仰の先達の声に耳を傾けたい。(記・慶徳正好=JECA・横浜キリスト福音教会聖書教育センター

宣教師、神奈川に来たる
01地図

写真=「東街道金川駅略図 写」1860年/横浜開港資料館所蔵

 日米修好通商条約が締結された翌年の1859年10月、米国長老教会宣教医J・C・ヘボン、同年11月、米国オランダ改革派教会宣教師S・R・ブラウンと同宣教医D・B・シモンズ、1860(万延元)年、米国自由バプテスト伝道教会J・ゴーブル、1861(文久元)年、米国オランダ改革派教会宣教師J・H・バラ、1863(文久3)年、米国長老教会宣教師D・タムソンなど、横浜上陸直後の彼らは、神奈川宿(現在の東神奈川から青木橋付近)に居を構えた。

 ■神奈川宿 歴史散歩 ご案内 (東神奈川駅から青木橋まで)

●成仏寺 JR東神奈川駅より徒歩7分   《宣教師館跡》

●宗興寺 JR東神奈川駅より徒歩10分 《施療所跡》

●本覚寺 JR東神奈川駅より徒歩20分《米領事館跡》

成仏寺は宣教師館

02成仏寺

03成仏 宣教師
写真=上は宣教師宿舎だった成仏寺門前(現在)。「神奈川成仏寺の宣教師たち」1860〜1861年頃/横浜開港資料館所蔵

神奈川の成仏寺には、ヘボンとブラウン、ゴーブルの3家族10人が、神奈川の宗興寺にはシモンズ夫妻が住んだ。当時の成仏寺の様子をヘボンは伝えている。「建物は本堂と庫裡からなっており、私は本堂を選びました。庫裡より小さいのですが、よく修理すればこじんまりして、私共の住居の習慣と趣味に適するように内部を改造できるのです。屋根は瓦葺で地面から床まで約122㎝で、柱で支えてあり通風がよく、約12・8㎡の一つの大きい構えで、天井までは約3・7mの高さに紙の障子で、外側は雨戸が閉まるようになっております。私共は、このだだっ広い家を住みやすいように改造し、大小八つばかりの部屋を作りました。部屋の境はこの国特有の襖でしきり、安息日の礼拝に必要な場合には、三つの前方の部屋を開けることができるようにしました。ブラウン氏は庫裡を選びました。自分の部屋を作ってみると周囲には広い美しい庭もあって、住みよい家になりました。ニューヨークに住んでいるのと同じような気持ちのよい住居となるわけです。勝手口に良質の水の出る井戸があり、食物も豊富です。良質のカキを大量に市場から買い入れることもでき、神様は豊かに私共のために供え給うのです。ブラウン氏が来られてから安息日には私の家でかかさず礼拝を行っています。一般外人にも出席するよう勧めています。前の安息日には13名の出席者がありこの異教の寺が真の生ける神に祈りと讃美をささげる神の家と変わったのです」

(書簡1859・11・22抜粋)

「はじめに奉仕あり」の広がり
宗興寺は無料の施療所

04ヘボン

写真=「ヘボン夫妻金婚式の写真」1890年10月撮影/横浜開港資料館所蔵

《はじめに奉仕あり》のヘボンの精神を表わした活動に医療がある。当初から、散歩で見かける漁師や主婦たち、あるいは子どもたちと出会い、赤い目、やにをつけた目、手足の傷、腫物の人を見かけては、寺に連れてきて治療に当たった。数多くの患者がヘボンの元を訪ねた記録も残っている。「まだその人々には大して薬をあげてはいませんが、この数日間に四人の患者の手当をしました。その三人は私共の番所の係の立派な武士たちでありました。 私はちょっとした手術を施しましたが、みな苦痛がとれてとても喜んでいたようです」(書簡1860・5・14)

 1861年春、宗興寺に施療所を移すと医療活動は日に日に増し、 毎日100〜150人、処方箋も月千枚以上になり、毎日の施療は困難となり、やがて週三日の開業となった。開設から半年後の9月には、幕府の命令で施療所は封鎖に追い込まれることになったが、移転した居留地39番には医療室を備えた立派な施療施設を完成させた。

居留地39番への移転 

05ヘボン邸

写真=「谷戸橋とヘボン邸」20世紀初頭/絵葉書//横浜開港資料館所蔵  中央右の建物がヘボン邸

 1862(文久2)年12月23日、ヘボンは居留地39番を自費で購入した敷地内に、施療所や宣教師館を兼ねた私邸を建て移転した。居留地とは、現在の桜木町駅から関内駅・石川町駅をつなぐJR根岸線より東側(大桟橋や山下公園のある方向)の海岸に至る場所に当たる。

 幕府は外国人とのを避けるため、この「関内」を海と川に囲まれた出島のような居留地として外国商社や住居につくり変えた。ヘボン邸はその最南部、掘割川の谷戸橋そば(現在の「横浜人形の家の裏手)に建てられた。39番の地所は台形に近い形で、ヘボン自らが図面に書いたように屋根の傾斜と曲線はまるで寺院のようで、成仏寺を模したと言われている。敷地には宣教師館の母屋の他、施療所と礼拝堂を兼ねた建物、別棟の病室、馬小屋などがあった。

信徒が生まれ、弟子が育つ
バラ、ヘボンと教会形成

居留地167番に最初のプロテスタント教会

◆日本基督公会の設立事情  

0802海岸過去

0801バラ

写真=石造りの小会堂とバラ宣教師 1868年11月献堂/横浜海岸教会HPより

  06海岸教会

写真=現在の横浜海岸教会

07海岸記念碑

写真=教会内にある基督公会設立記念碑


 1871(明治4)年、バラは再建した自宅に隣接して、日曜集会のために「聖なる犬小屋」と自ら呼んだ石造りの小会堂(写真左)を建てた。当時、英学によって立身を目指していた多くの青年士族たちが、外国人教師を求めて開港場・横浜に集まってきた。バラは日曜集会に出席する青年たちを中心に英語と聖書を学ぶ英学塾(バラ塾)を開いた。この塾はバラの熱意を慕う塾生ですぐに40人を超える人数となった。 翌1872(明治5)年3月「日本基督公会」と呼ばれる日本で最初の日本人による日本人のためのプロテスタント教会が設立されるに至った。

◆植村正久(当時ヘボン塾生)の見た最初の祈祷会

  「バラ塾生の数名の青年たちは英学を学びつつ時々基督教の教えに耳を傾けていた。大いに感じる所あって、1872(明治5)年旧暦正月、バラ氏に西洋人のように祈祷会を開きたいと願った。これが日本で最初の祈祷会となった。この日、バラ氏も感じる所あって、黒板にイザヤ書三二:一五《しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ》の聖句をあげ、使徒行伝を講義し、熱心にペンテコステの章を説明した。およそ30名の塾生の内、今まで祈らなかった者が祈り、続く者も祈り、ある者は泣き、ある者は叫ぶように祈り、互いに競うようであった」(『植村正久と其の時代』現代語に私訳)

◆日本基督横浜公会の日曜礼拝(居留地167番にて)

 「昨日は 日本人の教会で聖餐式が行われました。 その時私の日本語教師(奥野昌綱)が受洗しました。教会員は25人です。私の生徒や聖書研究会のメンバーたちがいました。彼らはみな誠実で、信仰あつい人々です。 彼らが主イエスの死を記念するのを目の当たり見、共に礼拝することは喜ばしい感謝に満ちた光景でありました。 私の生涯にこうした福音の成果が見られるとは、予想もしませんでした。」(書簡1872・8・5)

ヘボン邸から出発した指路教会

09指路

写真=ヘボン邸から出発した指路教会現在の姿

 後の横浜指路教会は1874(明治7)年9月13日、ヘボン施療所チャペルにてH・ルーミスを仮牧師とし、横浜第一長老公会として18人の信徒で誕生した。1892(

明治25)年ヘボンの尽力により赤レンガの教会堂が完成し、ヘボンの母教会名(Shiloh Church)にちなんで指路教会と命名した。「先週聖餐式の日に、横浜の私共の教会に七人を教会員として受け入れました。日本人の町の(住吉町に移転していた=筆者注)新しい会堂の礼拝は出席者が多数です。120〜130名にもなることがあります。多くは近くに住んでいる人たちです。」 (書簡1877・3

・12)

 夫妻は1878年に、ニューヨーク市の長老教会籍を住吉町教会に移し、1892年10月横浜を離れる際には献堂後間もない指路教会で夫妻の送別会が行われた。帰米後96歳となっていたヘボンは、永眠一カ月前、日本から送られた指路教会の写真と手紙を見て、最後の力を絞り出すように、震える手で次のような手紙を残した。「日本人のために、私のいたしました働きの中でも、あの教会の建築が、最も大切で有益なものでありました。救いの福音が公然と説かれるからです。私は、あなた(山本秀煌=筆者注)が会堂の修繕につくされたことを、喜んでいる次第です。あの教会が、今後長く、日本の伝道のために有力なものとなって行くことを祈ってやみません」 (書簡1910・8・26)

終わりに 

10横浜
写真=
現在の横浜みなとみらい地区

 ヘボンやバラの元から、明治期キリスト教界に多大な影響を与えた人物が生み出された。押川方義(松山藩、東北学院院長)、本多庸一(弘前藩、日本メソジスト教会初代監督、青山学院第二代院長)・熊野雄七(大村藩、共立女学校教師、明治学院幹事)・植村正久(旗本、牧師、伝道者、神学者)・山本秀煌(丹後峰山藩、牧師、教会史家)、井深梶之助(会津藩、牧師、教育者、明治学院第二代総理)などがいる。後に井深はバラについて次の言葉を残している。「もしもバラ教師が青年達に英語を教える傍ら、言語は未熟ながらも燃えるばかりの熱心をもって聖書を説明し、かつ熱誠をもって彼らの為に祈りつつ伝道する事が無かったなら、1872年3月に日本最初の基督教会が建設される事はおそらくなかったであろう」。

教会ご案内〈詳細はホームページにて確認を

横浜海岸教会 ★礼拝堂一般公開 毎月第3金曜日 午前10時〜午後3時。昼休み礼拝は毎月第3金曜日 午後0時10〜40分★一般公開以外の見学も有り。

 横浜指路教会 ★礼拝堂開放 毎週木・金・土曜日午前 10時-〜午後4時。

参考資料及び引用資料

・『ヘボン書簡集』(文中 書簡)高谷道男編訳 岩波書店

・季刊「聖書教育NO21」(横浜キリスト福音教会 聖書教育センター)

・『横浜開港と宣教師たち』(横浜プロテスタント史研究会有隣新書)