村岡祟光氏 英国学士院より「バーキット・メダル」授与 ヘブライ語聖書研究で貢献
ヘブライ語・セム語など聖書言語学の世界的権威で、マンチェスター大学、メルボルン大学、オランダのライデン大学などで教鞭を取った村岡崇光氏(オランダ在住)が、英国学士院より、今年度のバーキット・メダルを授与された。このメダルは、新約聖書の本文並びに東方教会の研究で目覚ましい貢献をしたケンブリッジ大学の教授、フランシス・クローファド・バーキット(Francis Crawford Burkitt)の業績を記念するために、1923年に創設され、25年の第1回授与より、奇数年に旧約学、偶数年に新約学と、聖書学の分野で著しい貢献をした学者に、毎年交互に授与されている。1902年に創立された同学士院が授与する賞やメダルの中でも、最も歴史あるものの1つである。
村岡氏は1938年広島市生まれ。東京教育大(現筑波大学)英文科で学士号、言語学科で修士号、イスラエルのヘブライ大学で博士号を取得した70年、英マンチェスター大学で教壇に立った際、英国で毎年11月に戦争の犠牲者を追悼して必ず放映される、英米合作映画「戦場に架ける橋」の、タイのクワイ川鉄橋敷設で強制労働を強いられた連合軍捕虜の物語を繰り返し見るうち、自らが日本で受けた平和教育が「犠牲者として」の教育であって「加害者として」の教育ではなかったことに思い至った。2003年に65歳でライデン大学を退職後は、アジアへの贖罪の旅を決意。アジア各国を回り、神学校や教会で無償で講義を行ってきた。
今回の受賞にあたり、村岡氏から本紙に寄せられた手紙を掲載する。
一昨日の夕方(9月27日)、私のヘブライ語学並びに七十人訳(旧約のギリシャ語訳)研究を重要な業績と認めてくれたロンドンの英国学士院から、Burkitt medalという賞を受け取るための授賞式に出席しました。人文学関係の色々な分野の20名ほどの受賞者も同席しておられました。受賞者は一人2分の挨拶をすることが許され、二人までは同伴者がいても良いということで、妻と、ロンドンにいる娘が同席しました。
私の英語での挨拶の和訳は以下のとおりです。
-私の学者としての生涯は1970年に英国マンチェスター大学のセム語講師として任命された時にさかのぼりますが、その年の11月第2日曜の夕方、テレビのスイッチを入れたところBBC2が「戦場にかける橋」という有名な映画を放映していました。祖国の歴史のこの暗いページに気がついたのはこの時が初めてでした。三ヶ月ほど前に、英学士院から今年のバーキット•メダルを授与することになったという驚くべき通知をいただきましたが、過去の受賞者の名前を辿って行った時、私は、チャールズ•ウェズリ作詞の有名な賛美歌の替え歌を書いてみたい強い衝動に駆られ、こういうものを考えました。「イギリス人に計り知れない痛みを与え、多くを過酷な死に追いやった民族の子孫である私がバーキット•メダルをいただけるなどということが可能なのでしょうか? 私ごときがこの栄誉にふさわしいとお考えくださったとは、これは驚くべき恵みとしか言えません」。英学士院の会員の中には、ご自分の父を、叔父を、あるいは祖父をこの戦争犯罪の犠牲者としてなくされた方がおられてもおかしくありません。このメダルを頂戴したことで、私がこれまで歩んできた聖書語学、文献学というヴィアドロローサを今後も歩み続ける覚悟がさらに固まりました。でも、一人でではなく、妻子達の支援を得つつ、上から、「村岡、使命完了」という声がかかるまで歩み続けるつもりです。誠にありがとうございました-
時間の制限もありこれ以上は言えませんでしたし、列席者の大部分が英国人で詳しく言わなくてもわかっていただけただろうという事情もありました。でも、少し敷衍します。
映画「戦場にかける橋」は1957年の米英合作で、日本人俳優早川雪洲も出演しましたが、太平洋戦争中、日本軍が、国際法を無視して、連合軍の捕虜を使役してタイからビルマに及ぶ全長415キロの鉄道(泰緬鉄道)を建設するという難工事で、その過程で膨大な犠牲者が出ました。英国、オーストラリア、米国、オランダの捕虜合計61,811人が使役され、うち12,621人死亡。英国兵だけでも、30,131人中6,904人死亡。このほかにも、正確な統計はないものの、20万をゆうに超える強制労働者が周辺の東南アジアから連行され、連合軍のそれをはるかに上回る死者が出た、と推測されています。この映画は、その線路の沿線でクワイ河に橋をかける工事に焦点を合わせています。英連邦王国では、今もなお、毎年11月第2日曜は「追悼の日曜日」と言われて、前世紀の二つの大戦での戦死者を追悼することになっており、それに関連したいろいろな行事が繰り広げられます。
授賞式に続くレセプションのとき、英国人の出席者の何人かが声をかけてくださり、私の挨拶にとても感銘を受けた、と言ってくださいました。その後、メールで同じような感想を伝えてこられた英国人も何人かあります。
私は、この受賞は、単に私個人の業績を英学士院が評価してくれた、ということだけではないのではないか、と思います。過去の受賞者の名前を見て気づいたのは、英国人以外の欧米の学者の名前は散見しましたが、アジア人での受賞者はこれまでに一人もなかった、ということでした。私個人の業績はもっぱら英語で発表されていますが、日本語のものも数点あります。現代語からの翻訳は除いても、たとえば、聖書外典、偽典(教文館1975)中の一部、岩波聖書(1997)中のダニエル、エズラ、ネヘミア書、論文数点。欧米に留学、博士号を取得して帰国されたり、博士論文や論文を英独仏語で発表される方が少なくない日本だけでなく、韓国その他、アジアの国々でも聖書の学問的な研究の水準が上がりつつあります。
挨拶の中に出てきますウェスレーの賛美歌は「賛美歌第二編」230番「わが主を十字架の」です。また、「ヴィアドロローサ」とは、イエスが磔の刑を宣告されてから刑場までご自分の十字架を担って歩かれた道を指す「悲しみの道」を意味するラテン語ですが、2003年にライデン大学を定年退職して以来、毎年、最低5週間、アジアでボランティアとして私の専門の科目を教えさせてもらっていることを日本聖書協会が評価してくれて、2014年聖書事業功労者として表彰された時に教文館から『私のヴィアドロローサ:「大東亜戦争」の爪痕をアジアに訪ねて』と題して出版された拙著の題に使った表現です。イスラエル留学のために日本を離れてすでに53年になりますが、国籍は今なお日本にあります。学問と政治は分けておいたほうが良いのではないか、と言ってくださる方もたまにありますが、私は学者である前に人間、日本人である、というのが私の立場です。
挨拶の中に、家族による支援に触れましたが、妻はお茶の水女子大で化学を学び、職業婦人としての道も選択できましたが、妻として、また、2年半おきに、しかも外国で生まれた三人の子供の母として、家庭の主婦に徹してきました。2009年出版の私の七十人訳辞書は彼女に捧げられており、「私のことをこんなに長いこと我慢してくれ、また私のために、私と共にこんなに苦労した妻桂子へ」と書きました。また、子供たちは、祖父母に甘えることもできず、イギリス(10年)、オーストラリア(11年)、そしてオランダというふうに私の職業的使命のために国から国へと渡り歩かされました。聖書語学並びに聖書の古代訳の研究者としての私は東京教育大時代の故関根政雄先生、ヘブライ大学での指導教官故ハイム•ラビン先生など、多数の先生、同僚、大学、研究所、出版社にお世話になりましたが、2011年出版の「クムラン•アラム語文法」は、今はなき父母に献じました:「一人息子で長男の私が長年にわたって外国に住んで仕事をすることを辛抱してくれ、それがためにこの世での最期のお別れもできなかった不肖の息子より、敬愛する村岡良江、村岡さちに捧げます」、と書きました。
この賞には賞金はなく、青銅製の直径7センチの丸いメダルで、一面には「知の根源である神の言葉が私の歩みを導いてくれた」とあり、もう一面には聖書の一ページが開かれていて、「神の言葉は生きており、現に働いている」という聖句がラテン語で刻まれています。