1月7・14日号紙面:特集・教会と政治 「政治的声明を出さない宣言」をめぐって
教会は同じ神を主と告白する者の群れだが、そこに集うすべての人が社会的、政治的な課題に対して同じ考えを持つわけではない。本紙でも政治的な問題への声明がニュースになるが、そうした中で、大阪・大東市にある大東キリストチャペルが「政治的声明を出さない宣言」をホームページで公開した。キリスト者は個人として、教会としてどのように政治的な課題と向き合うべきか。個人と教会は切り離すことができるのか。今回の「宣言」を出すに至った経緯と意図を同チャペルの伝道者田口望氏に、それに対する応答を日本福音同盟社会委員長の上中栄氏に寄稿してもらった。
政治的声明を出さない宣言
昨今、日本の主要なキリスト教界、諸団体においては、政治的な声明が発せられることがままあるが、我々の教会においては当該政治的課題が聖書と歴史的・正統的な教理に明白に反しない限りにおいては将来にわたって教会でかような声明を発しないことをここに宣言する。
原発反対、その主張は正しいかもしれない。しかし、電力会社とその関連会社につとめる者にとっても我々の教会は隣人でありたいのだ。
安保法制反対、その主張は正しいかもしれない。しかし、自衛官として生きるキリスト者、基地関連施設で働く者にとっても我々の教会は隣人でありたいのだ。
共謀罪反対、その主張は正しいかもしれない。しかし、暴力団をはじめとする組織犯罪に涙を飲んだ被害者たちに対しても我々の教会は隣人でありたいのだ。
「キリスト者の政見が絶対に正しい」とは「絶対に言えない」ことを我々は告白する。それは政治的志向の左右の別なくキリスト教を信じる信仰者として告白せざるを得ない。
かつてキリストの十二人の弟子たちの中に熱心党員シモンと取税人マタイがいた。もし、彼らにローマ帝国についての政見を尋ねれば前者は反ローマ、後者は親ローマと答えたであろう。十二使徒の間でさえ、政治的見解は一致をみず、ただ、キリストへの信仰によってのみ立場を超えてつなぎ合わされていたのである。
最後に我々の教会はまた、上述の政治的な声明を発するキリスト者たちをも排除せず、隣人として愛することをここに宣言するものである。
2017年7月16日 大東キリストチャペル 一同
〇田口 望 大阪聖書学院常勤講師、大東キリストチャペル伝道者
感性、良心は全的に堕落している
2017年、私の教会では、社会で生起するあらゆる政治的課題に関し、それが聖書と歴史的・正統的な教理に明白に反しない限りにおいては、将来にわたって教会としていかなる政治的声明も「出さない」ことを決議し、「政治的声明を出さない宣言」として教会のホームページ上で公にいたしました。このような宣言を出すに至った経緯を実践神学、聖書神学、歴史神学、組織神学の見地から、この場を借りてご説明させて頂きます。
最初に断っておきたいのですが、かような宣言を出した私は現政権の支持者でもないし、右翼的な思想も持っていません。また、「教会はただ伝道だけをしておればよい」というような立場にも立ちません。現に私の教会には、礼拝出席20名ほどですが、中国人留学生、在日コリアン、沖縄出身者、日教組の組合員がいらっしゃいますし、また、教会としても子ども食堂を月2回開催し、食育・貧困問題にも取り組み、中米の最貧国ホンジュラスから目の不自由な宣教師を招聘し、ともに福音宣教をすることを実践しています。教会員の政治や社会問題に関する関心はむしろ高い方であろうと思います。
そのような教会員ですが、それぞれが持つ個々の政治的見解は、右から左まで多様です。昨今、キリスト教会の牧師、指導者が「反政府」「リベラル・左派支持」の旗幟を鮮明にして発言、活動しているのを目にします。講壇から説教として語られることすらある、とも耳にします。そういう教会の空気の中で礼拝することに困難を覚え、転会してこられた人も私の教会にはいます。いろいろな考えを持つ信徒がいる教会では、牧会者はやはり、実践神学的に、羊を導くにあたり特段の配慮が必要と考えます。
私の教会でも、説教によって教会の雰囲気を一気に政治的に左(あるいは右)に振れさせることができるのかもしれません。しかし、教会の講壇は「説教者自らの政治的主張を語る場」ではなく、「聖書の一部をかいつまんで自らの政治的主張とダブる範囲で語ってよいという場」ですらないはずです。日曜礼拝で朗読される聖書テキストにおいて、自らの政治的感性と著しく違う処断を神がイスラエルや教会に対して下していたとしても、自分の考えを語るのではなくて、神がなぜそのような処断を下されたのかを、聖書から脚色なく真っ直ぐに解き明かすことが説教者に与えられた役割のはずです。講壇で許されるのは、あくまで神様のスポークスパーソンとして語る、その役割だけです。当該聖書箇所で「なぜ神がそのような処断を下されたのか」ということを、聖書の文脈からわかる限りで解き明かすことだけなのです。それが福音主義によって立つ聖書神学を修めた者の態度だと信じています。
また、過去2千年にわたる聖書解釈の歴史を覚えます。たとえば「安保法制」をどう考えるのか。日本のキリスト教界の流れは「非戦論」ですし、私自身、個人的には「非武装中立」という政策に心がなびいているのも事実です。しかし、キリスト教の歴史をそれなりに学ばせて頂いた一神学徒として、また過去数千年間にわたるキリストの福音に殉じた先輩兄弟に連なる者として申し上げるのであれば、軽々に「安保法制反対」と、教会として、またキリスト者として言えるかといえば、慎重にならざるを得ません(もちろん個人として賛成、反対という意見は言えますが)。
カトリック、プロテスタントがその系譜を同じくする西方教会では既に千年以上検討されてきている事柄です。アウグスティヌスが正戦論を唱え、今でもカトリック神学に大きな影響を及ぼすトマス・アクィナスの神学大全をみてもやはり正戦論を採り、絶対的非戦論を採ることはありませんでした。
私たちプロテスタントに直接連なるルーテル派の信条、アウグスブルグ信仰告白16条には次のようにあります。「市民的な事柄について、われわれの諸教会はこう教える。正当な市民的秩序は、神のよいみわざである。また、キリスト者が公職につき、(中略)正しい戦争に従事し、兵士となることは、(中略)正当である。われわれの諸教会は、キリスト者にこれらの市民的なつとめを禁じる再洗礼派を異端と宣告する。(後略)」(傍点筆者)。
改革派のウェストミンスター信仰告白も、23章の1で「剣の権能」(すなわち武力|日本国憲法でいうところの最低限度の実力|筆者注)は神様から国家に与えられていると告白し、23章の2では「新約のもとにある今でも、正しい、またやむをえない場合には、合法的に戦争を行うこともありうる」とかなり踏み込んで書かれており、その根拠となるみ言葉を十数個例示しています。
宗教改革の時代において、またその前後の時代において、このような信仰告白を採択した先輩兄弟たちが、熟議に熟議を重ね、神に祈り求め続けた結果が、非戦論ではなく、正戦論なのです。これらの事実は重く、日本の教会もまた謙虚に受け止めるべきですし、政治的声明を出すにしても、それらの歴史的な信条と比較して齟齬のないものでなければならないと考えます。
このような見解に対して、第二次大戦を経験した日本の教会の特殊性を鑑み、日本の教会は世界のプロテスタントの主流派が立つ正戦論から脱して、ブレザレン、メノナイト、クエーカー等の歴史的平和教会と主張を同じくすべきだという反論もあろうかと思います。しかし、同様の体験を持つドイツにおいて、ルター派や改革派等の福音主義に立つ教会が、そのような戦争体験を根拠として正戦論から非戦論に転換しようという議論がある、とは聞いたことがありません。
最後に、組織神学的にも留意すべき点があります。私たちは福音主義者です。であるなら全的堕落の教理を認めているはずです。そうであるならば、自らの政治的感性の領域も良心も一度堕落してしまっていることを認めなければなりません。まちがっても、現政権の政策が聖書的に絶対的に間違っているとか、教会が出す政治的な声明が神の前に絶対に正しい、などとは断言できないと留保すべきではないでしょうか。
以上述べてきた点を踏まえて教会員皆で話し合い、私たちの教会は、教会としていかなる政治的声明も出さないことを決議しました。聖書と歴史的・正統的な教理に明白に反しない限りにおいて、です。この地にあるキリスト者として、謙虚にまた誠実に歩むものでありたいと願っています。
〇上中 栄 旗の台キリスト教会牧師、日本福音同盟社会委員会委員長
宣教の言葉で政治へも発言する
「今どきはお寺でもクリスマス会ですか」と驚くと、逆に「教会さんでもクリスマスはやるんですか」と言われたという話があります。キリスト者であれば、「教会こそが」と思うでしょう。
私はこれと同じ感覚で、「教会でも政治を語るのですか」と問われたら、「教会こそが」と答えたいと考えています。実際には、政治に関する発言には、しばしば抗議が寄せられます。感情的で噛み合わない議論が多くて残念に思っていましたが、大東キリストチャペルの声明は興味深いものでした。田口氏が提示された神学カテゴリーは、建設的な議論に有益ですので、それを手がかりに応答してみます。
まず聖書については、創世記の《神は人をご自身のかたちとして創造された》(1・27)などの聖句が、現代の人権理解の基になっていることは覚えたい点です。民主主義や人権の尊重といった世俗の事柄は、キリスト教の価値観とも共通します。「人権」というといかついかもしれませんが、よく引用される聖句の《わたしの目には、あなたは高価で尊い》(イザヤ43・4)ということだと言っても大過ないでしょう。
こうした価値観を蔑ろにする政治風潮に対して、教会は発言する責任があると思います。しかし、田口氏が組織神学的に留意すべきという、人間の全的堕落はその通りで、教会が政府に対して正義を振りかざすことはできません。教会が発するのは、宣教の言葉であるべきです。しかしそれは、主イエスの言葉がそうであったように、耳あたりが良いだけのものでもないはずです。どのようにキリスト教の価値観を伝えるか、またダメなものはダメだと語るか等、人と社会を生かす言葉を獲得するのは、まさに神学的な作業と言えるでしょう。
したがって、教会が政治について語る言葉には、教会に連なる人への配慮が伴います。多様性を尊重しつつも、教会の方向性を共有するのは大切なことです。
その際、政治的な事柄に関心を抱く人にも、距離を置く人にも見られる共通の傾向として、弱い立場の人を善人とみなす悪い癖があることは自覚すべきだと思っています。隣人愛を説くレビ記第19章に、《あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない》(新共同訳)などとあります。「弱者に寄り添っている自分は正義だ」という勘違いは、政治家ばかりではなくキリスト教界にもあり、それが議論を不毛なものにしていると思われます。
さて、歴史的にキリスト教では正戦論が主流だというのはその通りで、今日の日本の教会で非戦論(絶対平和主義)的な言説が多いのは、ねじれ現象です。おそらく非戦論は現行憲法9条と相性がよいためと思われますし、それ自体が悪いとは思いませんが、教会の平和論であればその土台が何かはもっと問われるべきです。
ただ、正戦論は好戦論ではありません。プロテスタント教会は、はじめ領邦教会や国教会という公権力と結びついた教会として形成されたわけで、正戦論は現実問題に対処する知恵でもありました。アウグスブルク信仰告白やウェストミンスター信仰告白はこの時代のものです。
しかし、後の市民革命によって主権が権力者から市民へと移ると、教会では領主や国王といった権力から自由な信仰が主張され、教派が形成されました。ここで勝ち取られてきたのが、いわゆる信教の自由や政教分離原則です。ですから、今日の信教の自由も、本来は公権力から自由という意味です。そしてしばしば誤解される政教分離原則は、公権力の個人の信仰への介入を禁じるものであり、教会が政治に発言するのは自由です。
ところが日本の場合、戦前の明治憲法の「信教の自由」は、天皇から賦与されたもので、教会が勝ち取ったものではありませんでした。日本社会の根強い反感に対して、賦与された自由に力はなく、日本の教会は神社参拝に陥るなどしたのでした。 戦後の現行憲法の「信教の自由」は、理念は近代のものですが、やはり与えられた自由です。私は憲法押付論者ではありませんが、日本の教会が与えられた自由を享受しているだけでは、自由を制限する方向に進む最近の改憲論議の問題点に、気付けないのではないかと危惧します。
しかし、自由は必ずしも革命や武力によって「勝ち取る」ものではありません。自由や人権といった、キリスト教とも関係する普遍の価値を守ること、またそれらが蔑ろにされるなら、信仰の良心に従って発言することは、自由を勝ち取るための戦いと言えます。
また、先の弱者に寄り添っているという独りよがりな正義感は、与えられた自由に基づく人権感覚の希薄さが原因であって、人間の価値を尊重する「教会こそ」が声を挙げなくてどうするのかと思います。私たちが、民主社会に生きるのであれば、これは教会に課せられた不断の問いと考えます。
平和論については、正戦論の限界は誰の目にも明らかですが、だからといって簡単に非戦論にシフトできないのが現実です。そこで大げさに言えば人類の知恵が試されているのであり、教会がそれを傍観していていいはずがありません。最近よく耳にする抵抗権も、正戦論との関わりで考えるべき事柄です。
日本の教会は、権力と結びついたことがありません。その是非はともかく、在野からの正義の主張は、勢い現実離れした理想論に走りがちです。教会の政治に対する発言の希薄さも、これに似ているのかもしれません。しかし、理想が無力ではないことは、現行憲法が証明していると思います。教会が非戦論を語るならば、憲法だけに寄りかからず、また聖書を利用した理想だけを語るのでもない、平和論の構築が必須でしょう。
私たちは、クリスマスのたびに一生懸命聖書を読み、そのメッセージをどう伝えようかと腐心します。しかしそれは、喜びのわざです。政治に関する事柄についても、一生懸命聖書を読んで、何を発するべきか腐心する、それが信仰の営みとなることを願っています。
田口氏と結論が異なるものの、政治的声明を出さない理由として挙げておられる事柄については、異論はありません。感情的な反対意見や、正義は我にありといった主張とは、生産的な話しが難しいのですが、この時代にこの国に共に生かされているキリスト者として、神のみこころを選び取るための対話が深まることを期待しています。