2018年02月04日号 04面

診療2
タイトルにある「いのちの仕舞い」とは、本来なら「終い」と漢字を当てるべきものだろう。その「いい仕舞い」を何とか作りたい、それを一番大事な仕事にしている、と語るのは、高知県四万十市で、地域のかかりつけの診療所を拠点に、在宅医療に取り組む小笠原望医師である。彼の言う「いい仕舞い」とは、食べられて、  痛くなくて、  話ができて、その日まで、馴染みの人の中で最期を迎えること。地方の地域医療を担う診療所では、多い時には1日100人、普段でも60人の外来をこなす。それに加えて、自ら車のハンドルを握り、患者の診療に向かう医師の姿を、カメラは追って行く。
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 深刻な病状が認められながら在宅治療を希望した、年が明ければ92歳になるという女性は、最初布団に起き上がって医師を迎えた。よくしゃべる。次の時は、布団に横になっていたが、よくしゃべった。次は布団がベッドに変わっていた。「先生に診られてコトンと仕舞いたい」「先生に診てもろうてありがたい」。次の訪問時は、声をかけても答えない。見るからに弱っている。力ない声で「弱った」「痛いところは無い」「苦しうはない」。女性は3日後に亡くなった。

 しかし、残された家族の、故人を語る顔は穏やかである。「すうっと寝てしまって、起きなかった。すべてが穏やかに」。医師は言う。「その人の気持ち、周囲の人の気持ちがそろうと、それだけで幸せだ」。2人とも、晴れやかとさえ言える表情をしている。やれることはやってあげられた、ということでもあるか。

 施設で暮らす認知症の女性は糖尿病を抱える。容態が変わって寝たきりになってからは、食事も取れなくなった。治療行為はせずに最期を迎えようとするのが、この時点での常識的な医療判断だが、栄養補給を希望する家族の気持ちを考慮して、医師は点滴を打ちにくる。毎朝7時に病院を出て。それは、患者だけでなく、むしろ家族の気持ちに寄り添うということであろう。4週間がたち、女性の状態がこれで最後となった時、医師の方から「もう点滴はやめて、あとは見守りましょう。ここからは自然な感じで」と、家族に告げた。翌日、家族を全員部屋に入らせると、「◯◯さん、ごめんなさいね。目え見せて」と言って、いつもと同じように女性に声をかけ、瞳孔反応を調べた。

 「長いか短いか」「生きるだけ生きましょう」。言われなければ気づかないような、何気ない言葉の端々に、あとどれだけ生きるのかという意味の会話が交わされている。いずれ逝くのだということを、自然に受け入れている彼らの言葉からは、死が身近にあること、生と死が隔絶することなく、緩やかにつながっていることが伝わってくる。

 「人は一人で生まれ、一人で死んで行く」などということを、一体いつから言うようになったのか。ともすれば、死ぬという行為が個人の所有物となり、たやすく扱われてしまう現代にあって、人がその死を、残される人たちと豊かに分かち合っていくことができるなら、人はその生をも肯定的に受け止めていくことができるのだろう。
落ち鮎漁1
夕日の赤鉄橋
屋形船

 四万十の豊かな自然は、そこに生き、そこから恵みを与えられている人間を謙虚にもさせる。自分がその自然の一部であることを自覚する時、人間は、その生をも死をも、自分で独占することなどできないだろうし、むしろ分かち合うことでより豊かになっていくものなのかもしれない。

 スクリーンに映し出される四万十の四季折々の映像は美しい。私たちに、そんないのちの営みを教えてくれる。でも、もし本当に美しいものを知っているなら、四万十でなくても、人間は同じように謙虚になることができるのだろう。【髙橋昌彦

◆監督:溝渕雅幸、製作・配給:株式会社ディンギーズ、1月27日、TOHOシネマズ高知を皮切りに、順次全国公開。

HP https://www.inochi-shimanto.com/

(写真提供:株式会社ディンギーズ)