2018年02月25日号 02面

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 東日本大震災の翌年始められた「東日本大震災国際神学シンポジウム」の第5回が、2月5、6日に都内のお茶の水クリスチャン・センターを会場に、開催された(一部既報)。テーマは「裃(かみしも)を脱いだキリスト者−地の塩、世の光となるために」。4人の主題講演者の一人東京神学大学学長の大住雄一氏は、「天地の造り主は自由だ」と題して講演した。その一部を抄録。【髙橋昌彦

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 宗教改革の三大原理の一つに「万人祭司」があるが、これは牧師も信徒も区別がないということではない。皆が祭司として役割を与えられて生きるということであり、牧師は与えられた務めをキリストと共に担い、信徒も互いに執り成し合い、祈り合うということである。

 今回のシンポジウムのテーマは「裃を脱いだ…」だが、大震災後人々に受け入れられたのは、「裃」を脱いでざっくばらんになったキリスト者ではなく、キリストを身にまとい本来の祭司のあり方に生きるキリスト者ではなかったか。「裃を脱いだ」には、キリスト者同士の間にある壁を取り払う、という意味もあるかと思うが、本来守るために建てられている壁までも壊してしまうのは危険である。私たち人間が目指すものが、自分で勝手に作り上げてしまった神のイメージから自由になることになってはいないか。そこで今日は、本当に自由なのは神だということを考えて見たい。

 知恵の木の実を食べる前、人は裸であった。人を裸にしておいて、神だけ「裃」を着ていた訳がない。ノアの洪水の時、「地上に人の悪が増大し」、主は「地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」。人が裏切るであろうことをあらかじめ知っておられながら、あえて人を信頼しようとする神である。案の定人が裏切ったときも、心から悲しみ、心を痛められる。これは実は、神の自由に属することである。

 神は十戒の中で人を「あなた」と呼び、自らを「あなたの神」と規定する。そして自ら「主」と名乗り、名前を明らかにする。名乗るのは他の神と区別するためではなく、私たちから名前で呼んで欲しいからである。唯一神などということではなく、一対一の夫婦のような唯一無二の関係を前提としている。だから人が他の神をあがめれば、「ねたみ」を起こされる。その神は、あの震災の時にも、高みから裁きの目を持って見ていたのではなく、愛する者の痛みや死に、心を痛め、悲しまれたはずだ。怒り、悲しみ、妬み、喜ぶ方、それが「人格神」であり、神を信じるとは、そういう関係を神との間に結んでいるということである。

 ここで、マタイ22章にある、王が息子のために婚宴を開く話を考えたい。婚宴に最初招かれた人たちは、来ようとしなかった。王は、彼らはふさわしくなかったと言って、通りにいる善人も悪人も集めて、婚宴の席を満たそうとする。もともと招かれていない人が天国に入れられるのは、宗教改革の立場から言えば、イエスを信じるだけでだれでも救われるという「信仰義認」というものである。しかし、そこでは礼服を着ていないものは外の暗闇に放り出されてしまう。大事なことは、救いには何の業もふさわしさも求められないが、キリストの救いを祝うにふさわしい出で立ちだけは求められるということだ。その「晴れ着」はキリストご自身であり、それも神ご自身が与えてくださる。

 「裃=キリスト者の間に建てられた壁」を脱いだとき、私たちは、真実、キリストを身にまとって、キリストの所有として神の前に出る。それ以外にキリスト者としてのふさわしさはなく、その時にこそ、私たちは余計なものを脱ぎ捨てて、ただの「キリストさん」として、すべての人の前に出るであろう。