2018年02月25日号 02面

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 私たちの祈りは知らず知らずのうちに、「たいくつな祈り」になっていないだろうか。イエス・キリストが弟子たちに「こう祈りなさい」と教えられた「主の祈り」の一節一節を通して、祈りとは何であるか、神とはどういう方なのかを日々学ぶ『朝夕に祈る 主の祈り〜30日間のリトリート』(大嶋重德著、いのちのことば社)の出版を記念して、2月6日、東京・千代田区のお茶の水クリスチャンセンターで講演会が開かれた。KGK(キリスト者学生会)総主事である大嶋氏の講演会とあって、青年層を中心としたおよそ150人が集まった。

     【宮田真実子

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 講演のタイトルは『祈れないあなたへ〜「主の祈り」を用いて祈りの実践を〜』。大嶋氏自身が「(祈りは)嫌いじゃないけれど、好きゾーンにあるものでもなかった。だから『私たちにも祈りを教えてください』と言った弟子たちと同じ立ち位置だった」と正直に語り出すと、会場もほっとしたような雰囲気に。

 祈りを弱体化させるものとして、大嶋氏は「忙しい毎日」、「祈ることよりも、簡単に心を満たしてくれる何か」、「退屈な祈りの経験」をあげる。祈るよりも、SNSなどの人の反応に一喜一憂することに時間を割いてしまっている現代人。また、祈りの課題をただ並べるだけの「テンプレート化した」祈りによって、祈りが弱体化しているのではないかと問う。

   「祈っても聞かれないのではないか」という疑いの心が私たちから「祈り」を遠ざけるとも。

   「人は時として自分勝手に祈って、その通りにえられないと不満に思ってしまいます。でも神様は自動販売機のような方じゃない。150円入れて、150円の商品が出てくるのではなく、祈り続ける中で、私たちの思いを超えて、いちばんしい時に、150円どころではない答えを与えてくださる方です。私たちは神様を勝手に小さくしすぎているのではないでしょうか」

 弟子たちが願った時、イエスがわざわざ「主の祈り」という「型」を教えられたことには、意味があると大嶋氏。「イエスが普段から祈っておられた祈りだったのだと思います。祈れないと思っているような時にも、『主の祈り』を祈る中で神の御思いを知り、御心に叶った祈りに近づいていく、祈りの扉を開いてくれる型なのです」

 祈りの実践として、詩篇23篇を自分の祈りの言葉にして書き記すという取り組みも紹介。また、二人一組になって、2分間相手のことを思い巡らし、祈りの課題を分かち合うことなく祈り合う時間も。「『主の祈り』の中ではイエスは『我ら(私たち)』と祈れと言われました。自分が祈れないときに誰かが『我ら』と祈ってくれている喜びがあります。こんなに思われ、心配してもらっていたのだと気づくこともできますし、課題を言っていないのに聖霊の導きによって相手の本質的な祈りにがることもあります」。 会場では、涙ながらに祈り合う人たちの姿もあった。

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 第2部では、妻の裕香さんをゲストに迎え、会場からの質問に応える形での対談も。「祈っているときに別のことを考えてしまう」「場所はどこでもいい?」「好きな人のことを祈ってもいい?」など、具体的な祈りに関する質問に、祈りの時間を確保する工夫、どこでもどんなことでも言葉にして祈る中で示されていく恵みについて、夫妻の実生活の話題を交えながら、語られた。「祈りはいつもの家のご飯みたいなもの。講演会などは外食。いつものご飯は常にすごく感動するわけじゃないけれど、でも食べ続けなくては死んでしまう。祈り続けることが大事です」

 参加者からは「詩篇23篇を自分の祈りの言葉にして書き記すという取り組みは、非常にわかりやすくて良いと思いました。神様に愛されていることを一層強く感じるきっかけになり、助けられたような感覚です」「言葉で祈ることに苦手意識があり、言葉が詰まってしまったり、人前で祈ることが苦手だったが、あきらめずこれからも言葉にしてお祈りしていきたいと思いました」といった感想が寄せられた。