5月6日号紙面:西郷と聖書−その愛と赦し 『西郷隆盛と聖書「敬天愛人」の真実』の著者・守部氏講演
2018年05月06日号 08面
NHKの大河ドラマ『西郷どん』で西郷隆盛や彼が生きた幕末・明治維新の時代に再び注目が集まる中、クリスチャン・ジャーナリストの守部喜雅氏が、『西郷隆盛と聖書「敬天愛人」の真実』(いのちのことば社)を出版し、話題を呼んでいる。守部氏は、『聖書を読んだサムライたち』『勝海舟 最期の告白』など、明治期の日本の建設に深く関わった人々と聖書、キリスト教の関係を探る著書を多数著している。4月13日にその出版記念講演会がいのちのことば社本社(東京中野区)で行われた。講演テーマは「西郷隆盛と聖書・その愛と赦し」。講演要旨を採録する。【髙橋昌彦】
会場を埋めた人々は熱心に講演に耳を傾けた
今から4年ほど前に、山形県酒田市の教会から講演の依頼があった。大河ドラマ「八重の桜」で新島八重の知名度が上がっていた頃だったが、西郷隆盛の話をして欲しいとの要請だった。
そこに数人の、教会は初めてという方がいた。彼らは、旧庄内藩の関係者が西郷から聞いた話をまとめた『南洲翁遺訓』を勉強している人たちであった。私は、その書にある「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽し、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」を示し、この「天」はどういう意味かと尋ねた。
彼らは道徳訓としてこの言葉を捉えているのだろうが、その前提となる「天を相手にして」の意味はわからないと言う。確かに、「天」「天命」という言葉もあり、人間を超えた大きなもの、宗教的なものとして使われる言葉だが、はっきりしない。『南洲翁遺訓』には「天は人も我も同一に愛したもうゆえ、我が愛する心をもって人を愛するなり」という言葉もあるが、これは維新の武士たちが影響を受けた陽明学には無い言葉であり、ここにも聖書の影響があると見るべきだと思う。
西郷が聖書を読み、教えてもいたことは、ここ20年くらいの研究でわかってきたことだが、今から120年前、すでに内村鑑三は西郷の思想にキリスト教的な要素を認め、次のように述べている。「『敬天愛人』の言葉には、キリスト教で言う所の律法と預言者の思想が込められており、わたしとしては西郷がそのような壮大な教えをどこから得たのか興味深い所である」
「西郷が『天』をどのようなものとして受け止めていたか、それを『力』と見ていたかあるいは『人格』と見ていたかは定かではない…。しかし、西郷にとって『天』は全能であり、不変であり、極めて慈悲深い存在であり、『天』の法は誰も守るべきで、きわめて恵み豊かなものとして理解していたようだ」(『代表的日本人』)。陽明学における「天」は力であり法則だが、西郷の「天」は人間に語りかける、愛ある方である。内村は、西郷が聖書を読んでいたことを知らずに、深い洞察をしている。
西郷が聖書を読んでいたことは、鹿児島市にある西郷南洲顕彰館の館長を務めた高柳毅氏の研究によって明らかにされている。西郷の側近だった薩摩藩士の有馬藤太がその回顧談の中で、西郷が「耶蘇の経典」2冊を有馬に貸してくれ、「西洋と交際するにはぜひ耶蘇の研究もしておかにゃ具合が悪い」と言われた、と述べているからである。そして、2007年に西郷南洲顕彰館で「敬天愛人と聖書展」が開かれたとき、さらに2つの情報がもたらされた。1つは鹿児島市在住の川邊二夫氏から、彼のひいおじいさんの時代に西郷さんが家を訪れて聖書を教えていた、ということ。もう1つは、福岡在住の男性が祖先からの伝聞として、西郷が横浜で宣教師から洗礼を受けていたと聞いた、ということ。
西郷の“天”は人に語りかける「愛ある方」
日本精神や儒教にない新しい価値観
洗礼に関しては真偽のほどはわからないが、信仰に関しては高柳氏も、「西郷は晩年はキリスト教を信じていた」と言っている。聖書から大きな影響を受けていたのは事実であり、そう考えると、その後の西郷の生き方が分かってくる。
1867年の12月に江戸で起きた薩摩藩邸焼き討ち事件は、庄内藩によって起こされ、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争へとつながり、庄内藩は敗れることになる。捕えられた彼らは死を覚悟し「せめて切腹を」と願うが、西郷は「とんでもない。貴藩はやがてロシアが攻めて来る時大切な役割がある。私たちは運命によって敵と味方になってしまったが、いったん戦いが終わったなら皆兄弟である」と言った。
日本の精神世界や儒教にもない、まったく新しい価値観を西郷は持っている。そして、その背後に聖書の真理が働いていたことを忘れてはいけない。西郷が庄内藩を赦したがゆえに、『南洲翁遺訓』は生まれ、今も酒田市にはそれを学ぶ人たちがいる。
西郷には心中未遂の経験がある。「私事、土中の死骨にて、恥ずかしき生を忍び居り候」。自分だけ生き残り、申し訳ない思いで生きていた人。自分の貧しさ、闇を知っていた。だから光を求め、それを手に入れた。
歴史はすべて神の支配にある。クリスチャンでない方も神は用いる。主の許しがなければ何も起こらないし、ここに神の働きがあった事を認めないわけにはいかない。
私たちがすべきことは「主のご計画のために私を用いてください」と祈ること。そのような献身が、今の日本のクリスチャンに問われている。