2018年10月21日号 08面

この映画は、単なるパウロの生涯を自叙伝のように描いている作品ではない。紀元67年、ローマの街を大火が襲った。皇帝ネロはキリスト教徒を放火犯にし、首謀者としてパウロを逮捕した。獄屋にいるパウロを医者ルカが訪ね、彼の話を筆記していく。迫害の最中、アキラとプリスカにかくまわれているキリスト者たちには、剣を取って立ち向かおうとする者もいた。
しかしパウロは、「愛は寛容であり、愛は親切です。~」 (Ⅰコリント13章4~7節)と語り、愛で戦えとルカに語る。
この映画の第1の特徴は、多くのセリフが聖書のことばから脚本化されている点だ。20か所以上聖書からのシーンがある。それは脚本家・監督であるアンドリュー・ハイアットの「聖書に忠実で魅力的な映画を作りたい」という欲求から来ている。


第2の特徴は、ルカを重要な存在として描いている点だ。パウロは獄中なのでストーリー展開が出来ない。そこでルカを軸にドラマを作り、観客を映画の中に引きずり込んでいく。パウロの聖書のことばをルカが実践していく筋立てだ。しかも安易に奇跡で癒やすのではなく、医者ルカの手腕で治していることに、観ている者は共感するはずだ。
回心前の自分が迫害したキリスト者の夢を見て、うなされるパウロ。そんな彼が自分の罪が完全に赦されていることを知る。この映画のサブタイトルを決める時に、候補に残った3案を前に、「何をこの映画で知ってほしいのか」とソニー・ピクチャーズのスタッフに尋ねられた。「愛と赦し」と伝えると、それが最終決定の要因となった。映画パウロ
第3の特徴は、その「愛と赦し」を伝えている点だ。当時、キリスト者は少数で、迫害されていた。今の日本も少数だが、信仰の自由がある。しかし2千年前のキリスト者は増え続け、日本のキリスト者は減少している。なぜなのか。何が初代教会と違うのだろうか。
ルカを演じるのは、ジム・カヴィーゼルである。14年前に公開されたメル・ギブソン監督映画「パッション」で鞭打たれ十字架にかかったイエス・キリストを演じていた。
熱心なカトリック教徒であるカヴィーゼルは、この台本を読んだ彼の妻から「この仕事はやるべきよ」と言われて引き受けたそうである。
彼は大学生を前に「友よ、現代のパウロたれ」と講演をしている。その中で、現代のキリスト教は、「ハッピーイエス教」になっていないかと問題提起をしている。ハッピーなことが中心で、苦しみや痛みを語らない。我々が2千年前にタイムトリップして感じることは、そこに何も楽しみがないことである。火をつけられ街燈にされるキリスト者、ライオンのいる競技場に入れられ公開処刑に遭うキリスト者。神の沈黙は、キリシタン迫害の日本にだけあったのではなく、初代教会からすでに始まっていた。
しかし、そこに寄り添う神を見出していくパウロやルカ、アキラとプリスカから、真のキリスト教信仰の姿を観ることができる。
パウロの遺書だといわれるⅡテモテが朗読されるシーンでは、神が映画を観ている一人ひとりに語っておられるように感じるだろう。
エンディングの「この映画を殉教者に捧げる」という字幕を、許可をいただき「困難に遭っても信じ続けるすべての人々に捧げます」と替えさせていただいた。この映画を苦しみや痛みの中にある人々に観ていただきたい。
CGも無ければ、大笑いするシーンもない映画だが、試写会での感想では「今まで観たキリスト教映画の中で一番良かった」との感想が多かったのもうなずける。
さらにすでにこの映画を観た俳優・歌手の中村雅俊氏は次のようなコメントをくださった。「人生で何が一番大切か? ドンドン問いかけてくる。この映画は、人生を生き抜くための教科書。まさにバイブルだ」
この映画は多くの人に感銘を与える映画と言える。(レポート・礒川道夫=いのちのことば社)