北海道茅部郡森町。函館から電車で1時間ほど、漁業と農業を主な産業とする人口1万6千人の小さな町に、体育館を併設した会堂のある、森福音キリスト教会=グリーンヒルチャペル(吉田雄基牧師)はある。2年前に創立50周年を迎えた教会を訪ね、その宣教の歩みを聞いた。【髙橋昌彦】

写真=中高生たち。背景にあるのが、グリーンヒルチャペル

写真=教会堂の中に併設された体育館

 教会の創立は1967年、北海道聖書学院の1期生として入学し卒業した谷口由美子氏とOMF宣教師N・フィリップス氏によりスタートした。当時の北海道福音教会協議会(ECA)の支援を受け、駅前の民家を借り受けての出発だった。創設2年後の69年8月、第1回目の洗礼式を行った。その初穂となったのが、後に教会の牧師夫人となる吉田(旧姓三十尾)真喜子氏である。海外宣教への思いが与えられた真喜子氏は、高校卒業後上京し、語学を学び、保育士の資格を得て、派遣に備えていたが、その道が閉ざされる。そして、不思議と祈りのうちに結婚へと導かれることになる。

 そのころ森町の教会は、72年から吉田一行氏が伝道師として就任し、谷口氏の跡を引き継いでいた。聖書学院を卒業したばかりの伝道師が牧会する教会には女子高生も多く集まっていたが、独身の男性として困難を覚えていた。

 その吉田氏との縁談が真喜子氏にもたらされた。森町にいるときには会ったことの無い人だった。デボーションの中で示され74年に結婚した。結婚を機に吉田氏は、教会創設当初から受けていたECAからの援助を辞退した。礼拝出席が5人ほどだった時である。

 駅前の民家を引き払い、新たに会堂を建てた。土地は、結婚に反対した真喜子氏の父のもの。建物は教会員の兄で大工をしている人が安価で建ててくれた。吉田氏は人の手伝いはしても、生活のために仕事をすることは無かった。75年に吉田氏は、牧師として按手を受けた。

 牧師夫妻は二人で毎日トラクトを配布していたが、あるとき塩をまかれた。地元に根差し、根付いていかなければダメだと思った。子どもが生まれて通うようになった町の保育所は仏教的で耐えられなかった。そこで保育士の資格を持つ真喜子氏は、自分で保育園「こひつじの園」を始めることにした。地域に理解してもらえるように、という思いだった。75年に開園し、当初教会堂を使って園児4人で始まったが、1年ほどで20人に。翌年には教会の隣りに園舎を建てた。

 毎日礼拝をし、賛美と暗唱聖句をする。入園時に保育方針は説明して、理解した上で入ってもらった。行政と関わりのある保育園に入れない子たちが来るようになり、最も多い時には62人の園児がいた。

 町からは「宗教的な活動をしなければ、財政的な支援をする」と再三持ち掛けられたが、すべて断った。聖書と賛美と祈り無しに保育園をやっても意味が無い。町の保育行政が拡充するなかで、園児は減っていき、今まで2度存続を断念しかけたが、その都度必要な助けが与えられ、続けてきた。「今まで募集もしたことはありません。神様が送ってくださるならやります、と祈りながら続けてきました。この田舎では奇跡です。聖霊の業です」と真喜子氏は語る。

 94年からは教会学校の名称を変更し「ホザナ・キッズ」をスタートした。これは、全日本リバイバルミッションやMEBIG(メビック)など、日本中で用いられている働きに触れたことが大きい。牧師夫妻も、子どもたちも目が開かれていった。高校生の長男は公園に行って、そこにいる子どもたちと遊び、賛美をして、みことばを語るようになった。ミュージカルを企画し、毎日集まってお祈りして賛美して、演技の練習をして、み言葉を語った。3か月間の練習は子どもたちの成長につながった。森町の公民館で公演し、教会の存在が町に浸透していった。

渡島半島に福音を満たしたい

 この働きの中で与えられたビジョンが、「体育館のある教会」である。当時民家の隣りにあった教会は、子どもが増えるにしたがってホールが狭くなり、ボール遊びをすると窓ガラスを割った。夏のキャンプでは夜の9時を過ぎると苦情の電話がかかってきた。最初は漠然としたビジョンだったが、次第に切実な祈りになっていった。

 600坪の土地を見つけて、祈り始めた。膝まである長靴を買い、1月の雪の積もったその土地で毎日7回、夫婦で祈った。「決して売らない」と言っていた地主は、4度の交渉の末に承諾してくれた。しかし、費用は土地と建物を合わせて1億3千万円。月々の返済は50万円以上になる。教会にいるのは20人に満たないメンバーとホザナキッズの子どもたち。

 ビジョン実現のためには「信仰・祈り・犠牲」が必要であることを示されていた吉田牧師は、まず自分の5人の子どもたちを集めて、「本当に体育館が欲しいのか」とその意思を確認した。そして「これからは教会からの謝礼は無いものと思いなさい」と宣言した。夫婦2人と5人の子どもは「2匹の魚と5つのパン」だと決め、神様に差し出した。吉田氏50歳の時だった。

 98年10月に「体育館のある教会」が完成した。吉田夫妻は収入のすべてを献げた。子どもたちもみな、当時小学生だった末の子も真喜子夫人とともに新聞配達をして、献げた。ビジョンを共有してくれた教会のメンバーも同様だった。銀行への返済は一度も滞る事なく、20年の予定を繰り上げて、2014年に完済した。

写真=礼拝堂でも元気いっぱい

写真=超教派の若者集会「スラスト」

写真=吉田雄基牧師(左)と真喜子さん

 「体育館のある教会」は今、平日は学童保育の子どもたちが遊び、土曜日には中高生対象の「ジェネレーション・アライブ(GA)」が開催され、日曜日にはホザナ・キッズで子どもたちが賛美をしている。夏にはキャンプが行われる。毎年9月には、函館の教会と3教会合同で10年以上続けている、超教派の若者の集会「スラスト(Thrusting Upward)」の会場となる。足場を作りステージを設営し、スクリーン2台に照明も配置して、ライブ会場さながらに青年たちが連日賛美する。

 16年には吉田雄基氏が牧師に就任した。一行氏とは血縁ではないが、小学生でホザナ・キッズに集い、この教会で育ってきた。一行氏は、昨年3月に71歳で召された。亡くなる8か月前にすい臓がんが発見されたが、自宅で療養し、家族には「病気になる前も、なってからも世界一幸せだった」と言っていた。

 跡を引き継いだ雄基氏は次のように語ってくれた。「私は、この教会でアドナイ・イルエの神様に従っていく一行牧師の姿を見てきました。見たように生きることが今求められています。この教会の人はみな、本当にイエス様が好きなんです。田舎の教会ですから、救われて送り出す人も多いですが、あえて残る人もいます。この渡島(おしま)半島に福音を満たしていきたいですね」