「情」の“受難”を乗り越えられるか 地域アートが映す現代〜あいちトリエンナーレ2019から

写真=ワリード・ベシュティの作品。ガラス箱は段ボールにぴったりと収納し、空輸された。ひびは運送時の衝撃を可視化する。一箱は完全に割れて展示されなかった。奥に並ぶ写真も空輸され、荷物検査のX線を感光している

写真=村山悟郎の作品。情報技術の歩行者認識(歩行者を特定する)に抗い、認識されない動きを模索する。その行為がダンスパフォーマンスに見える。ほかに顔認証にかかわる作品もあった

 近年、日本各地で開催されている「地域アート」(国際芸術祭やトリエンナーレなど)は、美術館の枠を超えて、地域に密着した様々なプロジェクトを実施し、展示される最前線のアートが現代世界を映す鏡になっている。現在愛知県で開催されている日本最大規模の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」(10月14日まで。会場は愛知芸術文化センター、名古屋市美術館、名古屋市内まちなか、豊田市美術館、豊田市駅周辺)は、「情の時代」をテーマに、社会や人間存在の課題を扱った。そこにはキリスト者にも問いかける内容があった。【高橋良知

 「現代アート」とキリスト教

写真=dividual inc.の作品。遺書をタイピングの速度で表示し、書き手の筆跡、手触りを可視化し、感情も想像させる

写真=アンナ・ヴィットの作品。「営業スマイル」を60分間維持する映像。演者は顔が引きつっていく。彼らの真の感情はどうか

 「現代アートは難解」「どのように見ていいのか分からない」と言われる。商業エンターテインメントと違い、世の中の主流の見方から距離を置くことが多く、作品が表現する「現代の違和感」に難しさを感じることもあるだろう。だが実は「社会の枠の外」にいるキリスト者にとっては共有できる内容が多いのだ。

 かつて西欧でキリスト教は社会の主流であり、アートの主流でもあった。 ところが18世紀以降、近代市民社会の到来によって教会の権威が低下。教会や王侯貴族にかわって市民がパトロンとなり、アートが描くのは風景画、風俗画などが主になった。

 しかし、美術史家の宮下規久朗は「美術における宗教性は、近代的な相貌の下に隠されただけであった。それらは伝統的な図像や共通の規範から離れ、作り手の個人的な宗教感情を反映するようになった」(『美術の力 表現の原点を辿る』光文社、2018)と述べる。ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌがその例だ。

 20世紀の現代アートにおいても、ウォーホルやロスコの作品を例に「伝統的な図像に従っていないため、見ようによっては宗教性が感じられないが、その制作の動機や機能においてたしかに宗教美術」と指摘し、「真に優れた美術はつねに宗教的」と語る。

 スティーブ・ターナーはプロテスタントの可能性を探り、宗教改革にまでさかのぼってこう論じる。「プロテスタント主義は宗教的でない普通の生活も神のためにある」、「宗教的な題材でなくても、聖書的な価値観による作品を作る可能性を生み出した」(『イマジン—芸術と信仰を考える』いのちのことば社、2005)。

 さらに現代アートの「預言的」な役割について、「アーティストは既成の思考方法に捉えられないところがあるために、現在を生きながら明日のライフスタイルを身につけ、未来に生きる傾向」があり、「権力者の虚偽を糾弾したり、不正を暴いたり、一般常識とされている行動パターンを生み出す、特に根拠もない既成概念を突き崩」すと指摘する。このようなことが可能なのは、預言者や現代のアーティストが「社会の枠の外に生きる存在」だからだ。

 「地域アート」とは

写真=上は梁志和(リョン・チーウォー)+黄志恒(サラ・ウォン)の作品。古民家の中で、時代性を感じる男女の後ろ姿の写真。別のスナップ写真に写り込んだ本来の被写体と無関係な他者たちの情報を調べ、再現している。下は弓指寛治の作品。交通事故に遭った子どもたち、遺族、また加害者の記憶や証言に取材し、事故の状況を膨大な絵画、オブジェ、取材記録などで再現。事件や被害者の記憶を追体験する

 このような現代アートの視点で、地域の価値を再発見しようとするのが地域アートだ。

 東日本大震災後に地方の課題を再認識した倉林靖は、「社会の閉塞化・硬直化を打破してくれる」と地域アートに期待する(『震災とアート—あのとき、芸術に何ができたのか』ブックエンド、2013)。その特徴として、成長・拡大といった一方向への発展ではなく、各人の創造性の発展、非貨幣的な動機付け、コミュニティーや場所の発見などを挙げた。

 アート側でも西洋中心主義から多元的な文化を重視するようになってきた経緯がある。多くの地域アートにかかわる南条史生(森美術館館長)は、「その場所に合った歴史なり社会の構造があり、そういうものに即してアートは作られる」ようになったと話す(『アートと社会』東京書籍、2016)。近年の宣教論にも通じる視点だ。

 あいちトリエンナーレ初代監督の建畠晢(たてはたあきら)は「他者を受け入れることと、それによって喜びを共有したりコミュニケーションをとったりしたことが、観客の記憶に残る。それが多様な価値観を許容する社会の形成に寄与し、ひいては戦争抑止力にもなる」とまで言う(吉田隆之著『トリエンナーレはなにをめざすのか 都市型芸術祭の意義と展望』水曜社、2015)。

 あいちトリエンナーレでは、美術館での展示のほか、まちなかでの展示に取り組み、地域とかかわった。かつて栄えた繊維街・長者町ではまちの再活性に取り組んでいたが、アートを通じて新たな人々の流れができたという。今回は名古屋市の四間道(しけみち)・円頓寺エリアでまちなか展示が開かれた。

 四間道は城下町の風情を残す古民家を残しつつ、それらを新たに再活用する取り組みが進んでいる。展示は古民家や蔵などを使い、物語、写真、映像などで土地の歴史を想像させる作品が多かった。円頓寺商店街では空き店舗などを利用した展示があった。

 テーマは「情の時代」

写真=「表現の不自由展・その後」内のキム・ソギョン、キム・ウンソンの作品。「平和の少女像」(「平和の碑」が正式名称)。隣に座り、少女の目線を感じられる。開始3日後に展示は中止された

 社会に関わる現代アートは時に人々の心をかき立てる。「あいちトリエンナーレ2019」では、ジャーナリストの津田大介氏を芸術監督に迎え、芸術と社会を問いかけた。その趣旨は長文のコンセプト( https://aichitriennale.jp/about/concept.html )に表れる。ポイントを紹介しよう。

 まず世界共通の悩みとして、排外主義、分断、格差などへの不安を挙げる。その原因となっているのが、「情報」であり、それに揺さぶられる「感情」だ。「事実」を突きつけても、人々が信じたい「感情」が優先される。

 「苦難が忍耐を、忍耐が練達を、練達が希望をもたらすことを知りつつ」(ローマ書5章4節参照)、「世界を対立軸で解釈」し、「わかりやすい解答」で「シロ・クロはっきり決めつけて処理」する世界の流れを憂う。ここでさりげなく聖書を引用していることを覚えておきたい。

 興味深いのは、「情」の多義性だ。「感情」、「情報」は混乱をもたらしたが、「情け(compassion)」が希望となる。「たとえ守りたい伝統や理念が異なっても」、「情け」が連帯や他者への想像力をもった行動につながる。これを「情によって情を飼い慣らす」と表現する。このように「飼い慣らす」(Taming )ためには広い意味でのアート(技、技芸)が有効だと主張している。

 テーマ「情の時代」の英訳「Taming Y/Our Passion」にも注目したい。Passionは受難、受動、情熱と多義的であり、compassion(情け)の語源ともなる。いわば、「(“受難”に直面した)情を飼い慣らす」ということになるか。ここでY/OurはYour(あなたの)とOur(私たちの)を同時に含む。

 キリスト者は知るだろう。究極的には十字架の受難と復活が和解をもたらし、敵対していた「あなた」と「私」は、「新しい“私たち”」となれることを。ただし重要なことは、その希望を持つことで、苦難を喜べること、そこから「忍耐」と「練達」(新改訳2017は「練られた品性」)を経て改めて希望を見出すことだ。安易な解決ではない。出口の見えない苦難(「破れ」「争い」「嘆き」)に直面したとき、忍耐をもってアート(技、技芸)を追求することは「練達」につながるのかもしれない。

 現在あいちトリエンナーレが直面する“受難”は、「表現の不自由展・その後」の中止だ。従軍慰安婦を想起させる少女像や天皇像を扱った作品が物議をかもした。もともと公立施設での展示が断られた作品を問い直す内容であったので、一定の反発は予想済みだったろう。本来は政治的な主張よりも、アート的な方法での問いかけが趣旨だったようだが、事態は政治問題に発展し、SNS上ではまさに「情」の混乱が起きた。他のアーティストからは展示撤退、一時中止の申告も続いた。

 検証委員会が立ち上がり、芸術監督、アーティストらも様々なレベルで議論の場を形成したり、具体的な行動に展開しようとしている。今後再開するのか、あるいは「失敗」に終わるのか。「情」をどう「飼い慣らす」ことができるか。希望に変えていくことができるか。本展関係者のみならず、関心をもつすべての人の「忍耐」と「練達」が試されるのではないだろうか。この経過も注目したい。

 あいちトリエンナーレは多様な国籍を背景に、表現方法、対象の異なる多くの作品に触れることができる。テーマに沿って全体を「雑誌的」に構成しており、作品と作品の連続性、隣接性などの面白さを味わえる。ポピュラー音楽も取り入れた連夜のステージ、映像作品、舞台作品も楽しめるだろう。

 現在日本には地域アートが続々と開催されている。「乱立」という批判もあるほどだが、各地でアートを体験できる状態にあると言えるだろう。地域課題、現代的課題を知り、人々と共に取り組むことは、地域に置かれた教会の方向性を考える上でも意味があるはずだ。アート的な手法からヒントも得られるだろう。ぜひ身近な地域アートから地域と世界を見ていきたい。